言葉はいらない、タダにしてもらえれば。
誠意は言葉による謝罪ではなく、カネで示せ。
まだまだ食べたいものはたくさんあるのに、お腹いっぱいになってしまった時、やるせない。
「鳥のように空が飛びたい」とはよく言うが、世界には飛べない鳥も案外たくさんいる。
自分も飛べるようになりたいって思っている飛べない鳥がそんな事を聞いたら、きっと悲しむと思う。
誰かを傷つけたいとかは思っていなくても、無意識に誰かを傷つけていることを言っているのかもしれない。
#鳥のように
「さよなら」って日常ではあまり言わないし聞かない。
会社から帰る時には「お疲れ様です」
お客さんとの会議が終わった時には「ありがとうございました」
帰省した実家から帰る時には「ばいばーい」
最近聞いた「さよなら」は、おかあさんといっしょのコンサートが閉幕するときの、うたのおねえさん、おにいさん、他出演者一同が手を振りながらの「さようなら〜」
二度と会えなくてもなんら支障はないけど、会えたらいいねっていう場面でしか「さよなら」って使わないのかな。
知らんけど。
#「さよなら」を言う前に
近ごろは空模様を気にすることがめっきり少なくなった。
駅から地下道で直通の職場に就職したのが1番の理由かもしれない。
あるいは、スマホがまるで腕時計のように左手の平に固定されてしまっていることが原因なのかもしれない。
思えば15年ほど前、小学生の頃はよく空を見上げていた。
動物の形をした雲を探したり、自転車で遊びに出かける前には、西の方角の空模様からこの後雨が降ってこないかを見極めたり、入道雲の中にラピュタが隠れていないかと本気で探してみたり。
遠くの空に大きな雲を見つけた時には、その雲の下にどのような街や人の生活が、広がっているのか想像していた。
子どもから大人になっていくなかで、いつでもそこにある空をわざわざ見上げることはなくなってきた。
あのときの純粋な気持ちを思い出したい、などと言いたいのではない。
歳を重ねた分、知識はあの時よりも増え、想像できる世界はそれに応じて広がってきたと思う。
遠くの空の雲の下よりもさらに遠い場所を訪れることも日常になった。
ただ、私の世界が子どもの頃に比べていかに広がっていても、身のまわりには分からないことはまだまだたくさんある。
うちのコンロは気分によって火力が異なるし、同居している彼女の機嫌は何年連れ立っても分からない。
いつも見上げればそこにあるものだからこそ、明日は空をじっくりみてみようと思う。
#空模様