私たちはこの世界の全てに依存しなければ生きていけない。周知の事実であろうが、例えば、この地球であったり、私達の食べるものであったり、自分の身体であったりする。
では、「0から全てを始める」とは何なのか。
「何」と言われればピンと来ないかもしれない。また、自分の身体や意思が伴って起こる始まりが前提であるとするならば「0から」ではないのでは?と訝しんでしまう方もいるだろうがそのあたりは割愛させて頂く。
「始める」という点において、それは人生であったり、新生活であったり、趣味であったりするもので、世間一般の認識における「0から」はこれに属するものとしよう。では、そうでない「0から」とは何なのか。人格、記憶、或いは自我、私と言える人間の0。この世界に誕生したばかりの姿ではないが、まるでこの世界に、今、この瞬間に誕生するような現象そのもの。これこそが「0から」ではないだろうか?私達は人生の中で数多くの「0から」を享受されて育つ。だから突如世界に新たな方式が生まれたとしても誰1人気づかない。違和感にも気づかない。私もその1人であるからこそ、私の人格を疑うことしか出来ないのだ。
嘘つき、と言われればそうなのかもしれないが、突然言われれば困惑するし、衝動的に「違う」と否定してしまうだろう。そしてその「違う」というのも私の納得した部分に突き刺さり、これもまた嘘であることを嫌でも自覚させられる。
人は皆平然と嘘をつく。都合のいい嘘、誰かを傷つける嘘、「期待を裏切りたくない」とかいう律儀な嘘。
君もそうだ。勿論僕もそうだ。息を吸うように葛藤があり、苦悩があり、何処にも預けられない自分だけの「命の重さ」を抱えている。形もあやふやな、自分でも理解できない不安定な存在。目に見ることは出来ないけど、「これだけには嘘をつきたくない」って思える存在。それは欲望の塊、それは自分の信念、それはいつかの憧憬、それはいつかの誓い。
そして、息を吐く。
ちょっとだけ、私を好きになるように嘘をついてみようと思う。同情とは違うけど、ほんのちょっと、形が似ているようです。