夕凪が目に染みる。
夜に近づいた海は、生ぬるい塩分の匂いだった。
宿から少し行くと、すぐ、海岸になる。
この辺りは、海と近い街だった。
私は近くの防波堤に座り込む。そこからは、10月の、赤く染まった海原がよく見えた。
ひどく穏やかな海に、私は一時の迷いを覚えた。
幼くして捨てられた私を拾い、育ててくれたボスに恨みなど無い。
しかし、ボスを裏切り、組織を抜けた朝ほど、清々しかったことも無かった。
組織に雁字搦めな生活に、いつの間にかプレッシャーを感じていたのだ。
若い頃はそれが分からず、迷惑をかけたものだった。
今更、思い出す必要など無い、過去の記憶なのだ。
私は、コートの内ポケットから、手紙を出した。
昔馴染みの店に、届いた手紙らしかった。私の行き先が分からなかった組織が、苦肉の策でそうしたのだろう。
今朝、久しぶりに店に行くと、直々に渡されたのだ。
封筒には、半年前の消印が押されている。
中から便箋を取り出す。
ボスの容態が悪化している。そう簡素な文で書かれた手紙だった。私は暫く、それを眺めていた。
組織の連中が用意した、私を誘き出す罠であることは判りきっている。
昔から、よく使われる手口なのだ。
私は、手紙をもう一度読んでから、コートへと戻した。
夕凪はとうに止み、秋風が吹いていた。
後ろから気配が近づいてくる。
私は、何事かと思い振り返った。
私のいる防波堤の影から、ヒナが顔を出す。
「こんなところにいらしたら、身体に障りますよ」
宿の若女将は、随分と世話焼きな娘だった。
2年前の私は、身分を偽り、転々と職を変え、一つのところに落ち着かなかった。そんな私を、迎え入れたのはヒナの父親が営む宿だったのだ。
なんとかこの街で仕事を見つけた私の、世話をしてくれたのも、ヒナだった。
「晩ごはんが出来ましたから、早く帰ってくださいな」
それだけを言いに来たようだ。ヒナは、ほほ笑み、手を降って宿の方へと戻って行く。
海の方を見る。
水平線の赤が、まもなく、消えようとしていた。
私はその彼方を見つめた。
日が暮れる。内ポケットには手紙があった。それを捨てられないまま、私は佇んでいる。