きっと、最初に会った日から好きだった。
右も左も分からない私に先輩は一から丁寧に教えてくれた。間違ったことをしたって怒ったりしなかった。
先輩は気遣いができて、優しかった。きっと私以外にも。
突然想いを告げてきた後輩にも先輩はやっぱり優しかった。ひとつひとつ、丁寧に言葉を選んで、私を振った。
帰り道、電光掲示板に占いが踊る。
水瓶座のあなた!今日の運勢は最高!運命の人に出会えるかも?!
思わず道の真ん中で笑い出しそうになる。
なにが運命の人だ。私は今日好きな人に振られたんだぞ。
今にも笑い出しそうな、泣き出しそうな、そんな気分を抱えて曇り空の下を歩く。
近くのショッピングモールで夏服を見てから帰ろう。それから、かわいいサンダルも買おう。
いつか出会う運命の人のために。
『花束みたいな恋をした』という映画を当時のバイトの先輩と見に行った。
昔は実写の恋愛映画が好きではなく、漫画のセリフを人間が喋っているとなんだか座りが悪くなっていた。だから普段はアニメ映画か洋画しか見ない。(なぜか外国人が芝居くさく話しているのは平気)けれども人に誘われたのでまあ映画には興味はないがこれもコミュニケーションの一環だと思って見に行った。
結論から言うとそこまで居心地悪くなく見ることができた。映画のおかげなのか年をとって耐性がついたからなのかはわからない。
私という人間は嫌いなものが多い人間である。好きなものよりもずっと嫌いなものの方が多い。だから嫌いなものでアイデンティティを作ってきた。
あれが嫌い、これが嫌い、それが私。
けれど年をとって嫌いを口に出すのが面倒になってきた。嫌いだと言って反発するよりも黙って受け入れてしまった方が早い。
嫌いなものが減ってきた、否、減ったわけではない。けれど主張はしなくなった。「嫌い」で作ったアイデンティティが壊れてゆく。
10年前の私を知る人と今の私を知る人は同じ「私」を見ているだろうか。