昔から、暗い場所や独りぼっちは怖かった。
覚えているのは、保育園に預けられる時に大泣きして母にしがみついた記憶がある。
割と、3歳以降の記憶残っている俺。
普通は忘れそう?でもないか・・・色んな人がいるんだもんね。昔というか、深層に記憶されたものかもしれない。
でも、今はその記憶が尊い。母に叱られたり、褒められたり、家族や親戚で団らんしたことも。それも今になっては過去の記憶。
アラフィフになって現在、両親も他界。色々あって独身だ。気を張って生きてきたけど・・・ふと、思うことがある。
このまま独りでこの部屋で孤独死したら。
持病も抱えている現在・・・たまに怖くなる。
「君の瞳に乾杯」
なんてドラマ、昔あったかな・・・?人は(人だけじゃないかな?)、その人の本心を探ろうとする。
当人は気付いていなくても。
お母さんや子供の、恋人の、友達の。他色々。
確かに、キツい眼差しや廃人みたいな目は、気持ち的にブルーになる。
逆に、あまりに笑顔な眼差しも、不自然さがある(セールスマンとか☓☓チューバーとかね)。俺的には、その奥の眼差しに闇を感じる。
本当に安らげる眼差しって、自然に敵意を感じない程度が丁度よい。と、俺は思う・・・。
隣で寄り添ってくれる人・・・
それは、親かもしれないし、恋人、我が子、はたまたお気に入りのぬいぐるみなのかもしれない。
無条件で情を与えてくれる人、感じるもの、多分・・・それは人それぞれなのだろう。
でも・・・物理的なそういう相手は、いずれ無くなっていく。俺の母親は約12年前に他界した。亡くなって改めて、喧嘩しても、俺が遠くに行ってからでも、気持ちの面で寄り添っていてくれたのだなと解る。
人間は自分勝手だなと。
心の中では、母は今でも、俺の心に寄り添ってくれているのだと信じたい。
今年の盆も、色々供養したいと思う・・・。
知りたい・・・知的欲求は底を知らない。
「世界のこと」「趣味のこと」「未来のこと」
「好きな貴方のこと」
逆に、自分のことをもっと知ってもらいたいという願望もある・・・。
でも、様々な願望、果てはないのだろう。
平穏とは、人によって感じ方が違うのかもしれない。
衣食住が揃って感じる人、
お金が潤沢にあって感じる人、
好きな事をやっている時に感じる人、
家族や好きな人と一緒にいる時等・・・。
でも、平穏(安らぎや癒しとかとは、ちょっと違う気がする)て、もともとある当たり前のものの中に入ると中々感じにくくなる・・・人間は欲があるからだ。
学習やスキルアップや仕事、あれやりたいこれやりたい等。行き過ぎたら毒になるけど、適度にこなせている方が平穏に過ごせるんじゃないかな。
あと・・・東北や各地災害で被災された方、戦争で大変な思いをされている方、難民や貧困で苦しんでいる方、少しでも平穏な生活になりますように・・・。