『誰かのためになるならば』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
お題《誰かのためになるならば》
想いの原点。
原動力であり、追い風でもある。
「クオイ兄ちゃんは、どうしていつも笑ってるの?」
「笑顔でいたら、夜の底だって越えられる。それが嘘か真実(ほんもの)かより大切なことは、描こうってする想いなんだぜ」
いつも暁の国の辺境にあるちいさな教会で、子どもたちに物語の読み聞かせ、旅をしてきた自らの冒険譚、想いなどを語ったりしている。絵本を寄付したりと、クオイの活動は幅広い。
ふだんは手のひらサイズのグリフォン、フェンネルが、かばんに入っている。リシュティアから甘いものをもらううちに、甘党のグリフォンとなった。「ネルちゃん」と呼ばれている。
・手先が器用
ルシュラの懐中時計も直した。料理も実は得意で、行く先々で披露したりしている。スイーツやお茶を淹れる腕前はプロ並みだとか。
・人じゃないものにも好かれる
誰にも好かれるタイプ。老若男女問わず。
妖精とも仲がいい。
『誰かのためになるならば』
俺の幼なじみの彼女には生まれ持った不思議な能力があった。
再生の力。
人の身体、物、土地、あらゆるものを再生させる不思議な能力で、沢山の人が彼女に救われてきた。今や奇跡の力とさえ言われる程に皆が彼女を求める。
けれどそんな大きな力の副作用がないはずはなく、能力を使えば使う程身体は蝕まれていく……それが代償だ。
それでも彼女は笑顔を絶やすことなくこう言うんだ。
【誰かのためになるのなら、誰かを救えるのならこの命が尽きても惜しくはない】と。
とんだ奉仕精神だ。
そんなの偽善者だろ。
他人の為に自分の命を削るとか馬鹿げてる。
そんなとしてなんの意味があるんだ。
俺は彼女を罵倒した。
彼女を失いたくなくて、止めたくて出た言葉は優しさの欠片もないもの。上手い言葉が何ひとつ出てこない己の情けなさに拳を強く握ることしか出来なくて。
そんな俺に罵声を浴びせられても彼女は決して怒らず穏やかな笑みを讃え続けていたんだ。
あの時、彼女に嫌われようとも手段を選ばず強制的なに止めていたならこの未来は訪れなかったかもしれない。後悔の念が頭の中に渦巻いていく。
完全に蝕まれ死を迎えた彼女の身体を抱きしめて俺は一晩寝ずに一人で声も出さずに泣き続けた。
誰かの為になるならばと死を選ぶんじゃなくて、俺の為に生きて欲しかったよ。
誰かのためになるのなら,自分が犠牲になってもかなわない…
私は,自分より友達をとる
自分の幸せよりも友達の幸せを願う
だから,
神様…!ワタシのネガイ叶えて欲しい…
自分はどうなってもいい
みんなを幸せにしてください
私は,天国から見守るから……
誰かのためになるならば____
「人心配より自分の心配をしなさい」
テストの結果が返ってきて、自分のほうが点数悪い癖に私は、他の子を心配していたら母にそう言われた。
以来、母の口癖はこの言葉だった。私は、そんな母があまり好きではなかった。
人の心配するっていいことじゃん。優しいことじゃん。昔の私はそうとしか思えなかった。
ある日、泣きながら言われた。
「人の心配より自分の心配をして……」
友達の愚痴を聞き続けるのは、私にとっては大きな傷になっていたらしい。感応精神病というものになりかけていた私は、それでもなお友達や両親、身近な人が苦しんでいないか不安だった。
でも、母に泣きながら言われて気がついた。
私は、弱いのだと。
人を、助けるほど、
救えるほど強くないのだと。
人の心配より、自分の心配……。
私にできるだろうか。
『だれかのためになるならば』
わたしという責任がある。
誰かのためになるならば
己を犠牲にすることができますか。
そう問われて、私はすぐにYESと答えることができない。
私とはものすごくわがままな生き物だ。
分かっているが、それを辞めようとは思わない。
別に、やりたくないから人任せ。
怒られたくないから人のせいにする。
そんな事をしている訳では無い。
ただ、自分のために自分に正直に生きているだけだ。
さて、話が逸れたが、私は誰かのためになるならば、己を犠牲にすることができるか、と問われて、すぐにYESとは答えられないことを、さっき言っただろう。
だが、YESと答えられない、とは言っていない。
すぐに、答えられないだけだ。
別に、それが自分のため、自分が正直に己を犠牲にしてでも誰かのためになることをしたい、と思えば私はそうするであろう。
要するに…まぁ、わがままなのだ。
「誰かのためになるならば」
うーん、頭がいい人のフリをするのは難しい。
私が無事であるということはきっと、
誰かの幸福のためでもあるのだろう。
ーーーーー
「人魚」
王子様も、ヒーローも、
完璧なんかじゃない
この小さな手の平で
一体どれほど海の泡を守れるのだろう
すべてを投げうって、
いくつの瞳を愛せるのだろう
誰かのためになるなら、自分は犠牲になってもいいと思う時期もあった。
でも、今は誰かのためになって、なおかつ自分も嬉しいと思える選択が真の答えだと思うようになった。
誰かのためになるならば。
先ずは自分のためにならねばね。
自分を愛してあげなきゃ誰かのために頑張るエネルギーは貯まらないよ。
誰かのためになるならば
私は小4の時にみんなが嫌がることを率先してやった。
掃除とか、
給食を運ぶとか。
被害者は一人だけでいい。
って思ってた。
その時からもうよくない考え方をしてたんだな。
誰かのためというか、
少しでも役立てると自分を肯定するためにやってた。
自分が整っていないのに
誰かのためなど考えても
誰にも響くわけなどない
ただ少なくとも
私を助けてくれた時
それはとても嬉しくて言葉では
言い表せない気持ちになる
ありがとうという言葉だけで
終わらせて良いのか悩む
だから誰かが言えない助けてを
私が知ってしまったなら
私は助けてくれた人たちの真似をする
思いっきり感謝を込めて
題名=誰かのためになるならば
‘’誰かのためになるならば”私は命を落とす
なら、‘’僕のために”生きてよ
『 誰かのためになるならば 』
いつも笑顔でいたいと思う
自分のために
好きで
辛くなったり
苦しくなるほどの
無理はしないで
楽しむような感覚で
やっている事が
結果、誰かのために
なったのであれば
それを自分が知る事は
なくてもいいし
そう思わせてくれる
人達がいてくれる事が
私は幸せ
誰かのためになるならば
たった1人でもその人のためになるのなら
精一杯役に立てるように頑張りたいな。
誰かのためと思ってやった事が、かえって誰のためにもならず。
自分のためにやった事が、むしろ人の役に立つ。
「誰かのためになるならば、私は人を殺す」
この言葉が色づいて見えた時、それは戦争が始まった時だ。
私のこれからの無駄な寿命をあげたいよ
《 誰かのためになるならば 》
誰かのためになるならば、この命を投げ捨てても構わない。
誰かのためになるなら、道を踏み外しても構わない。
そんな考えが本当に誰かのためになるのだろうか?
それは自分達のエゴじゃないのか?
誰かのためになるのなら、多少しんどくても先にしててあげたらいいか。
その後、自分も楽やしなー。多少、辛くても、相手が良かった〜って喜んでくれてるのなら、嫌われるよりいいか。誰かのためになることをして嫌われることはないし。