#三日月
真夜中、家を出た。
月明かりのなかを歩いていると誰かに出くわした。紺色のシャツの青年だった。
「よい月ですね」
「ええ、まん丸ですね」
わたしたちの頭上にはビスケットのようなお月さまが、ぽかっと浮かんでいる。
「こんな晩は、あれが聞けそうです」
あれとはなんだろうと首を傾げると、青年がほら、と目配せをする。疑いながら耳を傾けると、たしかに聞こえてきた。
くわっそん
くわっそん
ちいさな、やわらかい鳴き声だ。
くわっそん
くわっそん
「なんですか、あれは」
クワッソン鳥ですよ、と青年が答えた。
「いい声ですね、久しぶりです。今夜はついている」
クワッソン鳥。
「あの声を聞くとね、僕は無性に鳴きたくなるんです。でもあんなふうには鳴けません。なんて優雅なんだろう」
「クワッソン鳥とは、なんですか」
「ご存知ないんですか。この辺りではめずらしいですからね、きれいな鳥です。こんがり焼けたきつね色の羽ではばたくのです。ああやって鳴くのはさみしいからです。仲間を呼んでいるんです。だれだって、独りはいやでしょう。鳥だって一緒です」
くわっそん
くわっそん
しずかな夜の公園に鳥の声が響いている。
くわっそん
くわっそん
たしかにどこかもの悲しい感じがする。
ギャアッと、とつぜん悲鳴がした。
ああ、いけません、と青年があわててベンチから立ち上がった。
「あなたも帰ったほうがいい。奴がきます」
「やつ」
「フィェーフです。急いで」
ふぃえーふとは何だと訊ねると、駆けだそうとしていた青年は驚いてふり返った。
「知らない?フィェーフを?ニュースを見ていないのですか。最近はその話で持ちきりですよ、ああ、だめだ。ごらんなさい」
青年が指差した空を見上げると、ビスケットのようなまん丸な月が、真っ黒な影にムシャムシャ食べられていくところだった。どんどん食べられて小さくなって、公園も街も、たちまち深い闇に沈んでしまった。
目をあけると、家のソファに座っていた。
窓の外には欠けたビスケットのような、クロワッサンのような月が浮かんでいた。
1/9/2024, 12:41:55 PM