暑かった夏休みが終わり、大学の後期授業が始まった。
キャンパスの木立から見上げる空は鱗雲がたなびき、木漏れ日を吹き抜ける風が日中の蒸せるような暑さを和らげてくれていた。
大学の研究が忙しくてカフェのバイトを辞めた。後期授業が始まった今も忙しさはあまり変わらず毎日は慌ただしく過ぎていく。
「米田さん、新しくできたカフェ、行ってみない?」
「え?」
講義の空きコマで、同じゼミの森田くんに声をかけられた。
明るくて、みんなのまとめ役の良い人。
私がすぐに返事をしなかったからか、「えっと、もう行った?ダメだった?」と戸惑っている。
「あ、ううん、まだ行ってない。私も行ってみたかったから、行こ」
「良かった」
森田くんがホッとしたように笑った。
キャンパス近くの最近オープンしたカフェは、外観も内観もナチュラルテイストでとてもお洒落。
たくさんの観葉植物と、自然光がたっぷり入る大きな窓、木製のテーブルとチェア、ライトウッドの床材。自然を意識したような温かみのある空間は、私がバイトしていた緑地公園のコンテナのカフェを思い出させる。
カウンターのメニュー表の「スペシャリティコーヒー」という文字に目がいく。
中学1年のときの長距離継走部の顧問だった早坂先生が初めてコーヒーを飲みに来てくれた日、私は先生からお薦めを聞かれて、スペシャリティコーヒーのブレンドと答えた。それ以来、ブレンドを気に入ってくれた先生は同じ物を注文してたから、いつしか私たちは「いつものですね」と笑い合うようになった。
「米田さん?迷ってる?」
森田くんに声をかけられ我に帰る。
「あっ、スペシャリティコーヒーのブレンドで」
「かしこまりました」
店員さんが笑顔で頷き、私も笑い返した。
「スペシャリティコーヒーって?」
「高品質のコーヒーのことだよ。栽培から抽出まで一貫して高品質の、こだわりのあるコーヒーなの」
「へえ。米田さん、詳しいね」
「私、カフェでバイトしてたことあって」
「そうなんだ。今度俺も飲んでみようかな」
「ぜひ」
運ばれてきたブレンドはスッキリとして飲みやすく、私が淹れていたブレンドと味も香りも色もなんとなく似ている気がする。
何度も飲んでいるのに、飲む前には楽しむように目を閉じて香りを嗅いでいた早坂先生。
「美味しい」と穏やかに笑った顔。
ランニング後の滲んだ汗と、汗を拭うタオルの柔軟剤の優しい香り。
カップを渡すときに触れ合った指先にドキドキしてしまったこと。
他にお客さんがいないのを良いことに、販売スペースのコンテナから降りて、先生の正面に座って会話していたこと。
緑地公園の木漏れ日、夕焼けを映した池、ひぐらしの鳴き声。
「米田さん?」
「あ、ごめん。考え事してた」
「なんかホント忙しいよね。俺もこんなに忙しくなるとは思わなかった」
「だよね」
森田くんと笑い合う。みんなのまとめ役なぶん、ゼミの仲間それぞれに指示を出してくれたり、私よりも大変なのにそれを見せない。良い人。
「森田くん、いつもありがとうね」
「ん?」
「ゼミのまとめ役をしてくれて。私よりずっと忙しいのに、そんな素ぶりも見せないで、すごいと思うよ」
森田くんが口元に手を当てて、ンンッと咳払いした。
「や、えっと、コレも性分だから。でも、米田さんにそう言ってもらえると、すげえ嬉しい」
照れ笑い、だと思う。私の本心だったけど、ちょっと伝え過ぎたのかもと胸騒ぎがする。
「米田さん、また時間ができたときにでも、一緒にカフェ巡りとか、どうかな?」
良い人だと思ってる。誘い方も声も誠実で、悪い人じゃないってわかってる。
でも…
「ごめんなさい。そういうのはちょっと…そういう気分じゃなくて」
「あ、うん。わかった。ごめん、変なこと言って」
「ううん。嬉しかったけど、ごめんね」
ぎこちなく笑い合う。
森田くんじゃ、多分ダメなんだ。
私が思い出すのは早坂先生だけだから。
カフェに淹れたてのコーヒーの香りが立ち込める。
早坂先生が最後にカフェに来てくれた日、私は先生に突然バイトを辞めることを告げて先生を驚かせた。
驚かせて倒れかけたカップに咄嗟に手を伸ばしたら熱いコーヒーが指先に掛かった。痛いと思う前に先生は私の手を握って、水道の蛇口へ連れて行き、流水で私の指が冷たくなるまで冷やしてくれた。
先生は焦っていたのに私が驚かせたからって自責の念を抱かないように、「米田が謝ることじゃない」って言ってくれた。優しく囁く声が耳元に残っている。
あのとき、早坂先生は火傷にならないように指を冷やすことに夢中になり過ぎて、2人の距離がすごく近づいていたことに気づいてなかった。
私はあのとき、ドキドキしてた。動悸が激しくて、頬も熱くて、でもそれは不快じゃなくて。
2人の距離が近いことに気がついて先生が私から遠のいたとき、先生の頬が赤く見えたのは夕陽のせいばかりじゃないよね。先生も、ドキドキしてくれてたのかな。
森田くんとキャンパスへ戻りながら、木陰を歩く。
夏は終わりを迎えて、季節は秋に進んだのに、私は夏を思い出す。
中学2年の大会で、早坂先生が練習不足だと私を叱責して、私は黙って俯いた。
その後、早坂先生の誤解は解けて「米田が練習不足なの、捻挫してたせいだって聞いて。走りたいのに走れなかったのに、本当にごめん」中学生の私を子ども扱いせずに誠心誠意謝ってくれた。あの日、早坂先生と、長距離継走部の親友の鈴ちゃんと、顧問の神谷先生。それに霧雨とペトリコールの優しさが私を包んだ。
中学生のマラソン大会ですっかり早坂先生を許してたのに、大学生になって始めたカフェのバイトで再開したとき、早坂先生はあの日のことをずっと気になっていたんと謝ってくれて。
私が泣いていたのを早坂先生は自分が泣かせたと誤解してたから、神谷先生の優しさのせいだと誤解を解いて、頭を抱えた早坂先生に私は笑った。
あのとき、楽しくて笑った。
早坂先生がカフェに現れる時間を楽しみにしてた。
あの日だけじゃない、それからずっと、私は早坂先生とのお喋りが楽しかった。
あの夏に忘れ物をしたみたい。
早坂先生は火傷にならないように水をかけていた私から遠のいた後、何を思って唐突に靴紐を直すために屈んだの?
まるで卒業式の式辞みたいなエールを私に贈ってくれて、それはそれで嬉しかったし、頑張ろうとも思ったけれど、私はあの夏に忘れ物をしてしまった気がしてならないよ。
早坂先生。
早坂先生は今も、緑地公園の池のほとりをランニングして、コンテナのカフェでいつものブレンドコーヒーを飲んでる?
「寂しくなるな」って言った先生の顔が、本当に寂しそうだったと伝えに行っても良い?
あの夏の忘れ物を、探しに行っても良いですか?
夏の忘れ物を探しに
9/2/2025, 6:26:43 AM