ある女の話をしよう。
女が少女であった頃、その頃から利発だった。
数字や数式、元素といった「記号」に魅了され
両親に買い与えられた読本を夢中になって読んだ。
そんな少女をよそに、両親は仲違いをしていった
父と諍いの絶えない母。気付けば失踪していた父。
そうして、母も同じ様に少女を置いて行った時
少女は他人に興味を失った。
少女が一人でいるのを保護された時も。
少女を哀れと思った誰かが引き取っても。
少女はただただ数式と化学式に没頭した。
心優しい里親と自身の努力の結果、
国立教育機関に学費免除の上成績首位で入学となり、
より多くの知識と可能性を追求できる
環境へと身を置いた。
少女は女となり、
女は知らぬ間に様々な功績を打ち立てて、
所謂「天才」と持て囃される様になった。
多くの賞を得て、名声も地位も手に入れた。
女に多くの人間が関わる様になった。
女の恵まれない幼い過去を掘り下げる輩が出てきた。
女が望んでいなかった「無駄な」時間が増えた。
ただ探求する事が好きだった。
ただ煩わしい音が嫌いだった。
憐憫も嫉妬も憧憬も同情も。どんな言葉も声も。
何もかもがうっとおしく感じられた。
そうして女が初めての賞を得てから5年が経った頃。
ある大雨の日に、女はふらりと姿を消した。
「 、ふぇくちっ」
「………何やっているんですか、貴女は。」
ガラリと躊躇いなく開けられた浴室の扉から
呆れ声が一つ。また自分は眠りこけていたらしい。
ぺちゃぺちゃと張り付く感覚に
気持ち悪さを覚えながら、頭上の声の方へ向く。
「やあ、君か。何って…付属物と身体の洗濯?」
「衣服を着ながら入浴している事を間違っても
「洗濯」などとは言いませんし、
そもそも衣服を身体の「付属物」と言うのは
何か服に恨みでもあるんですか貴女」
凛々しい眉をぎゅっと寄せて、
同居人はじとりと睨んでくる。
さて、何故こんな状況になったのか。
物臭女は、幾らか頭を捻って思い出す。
そういえば、
丸3日本に没頭して部屋に倒れていた自分を
仕事で暫く会っていなかった同居人が帰宅後
発見し、栄養補給を強制的に行われ
「流石に不潔です。せめて入浴して下さい」
などと語られ浴室の前に放り投げられたのだった。
そして、3日間思考の冴えたままだった自分は
「脱ぐのは面倒だ。そのまま入れば一石二鳥だ」
と恐らく思考して使って今に至る…気がする。
同居人の放つ圧と視線に耐えかねて
ざばあと湯を滴らせながら立ち上がるも、
ぬるい湯の染み渡った「付属物」…いや服は
まとわりついて動きにくい。
……そういえば、こんな事が前にも
あった様な気がする。
「とりあえず早く上がって着替えて下さいね。
…間違っても、その服を周辺に放らない様に。
あと髪を乾かしてる途中で眠りこけない、」
「わかったわかった!全く、君は世話焼きだねぇ」
物臭女がタオルを受け取ったのを確認して
同居人は浴室を後にし、リビングへと向かう。
上がってきた女の為に珈琲を用意する為だ。
……つい2年ほど前にも同じ事があったな、と
懐古しながら
ーある██の話をしよう。
██は女の事を少女の頃から知っていた。
と、言っても実際はただ一度の邂逅も同然
女は碌に覚えていない記憶だろう。
十五夜と呼ばれるある夜、
まだ仲の良かった男女と少女は空を見上げていた。
比較的夜空が美しく描かれる郊外にて、
恐らく旅行にでも来ていたのだろう。
少女は星にも負けない様なきらきらとした目で
空を眺めていた。
その途中で、じっと「自分」を見てくれたのだ。
名のない、普遍的な薄い赤の光を放っていた██
少女は特に何を言うでもなく、
暫く「自分」を見てからくるりと翻し
「ぱぱ、まま!キレイな██様がいたよ!」
と言ったのだ。
きっとそれは自分じゃない。
他の██の事を指したのだろうが、
あんなにも熱心に見られてしまった事が
あのきらきらした瞳が、表情が。
忘れられなかった。
出来る限り██は少女を見守った。
少女が喜ぶ様も、傷つく様も、
次第に周囲へ興味を失っていく様も
何も出来ないまま、見守った。
見る事しか出来なかった。
少女が女となり、女がややあって
何処かへ逃げる様に…或いは迷子の様に、
大雨の中を彷徨っていた頃。
哀愁をそそる後ろ姿を見せた時。
とうとう██は堪えきれず飛び出した。
どうやって、だとか何をもって、だとか
理屈は分からないまま傘を片手に降り立った。
そうして、濡れ鼠になった女にそっと近づいて
「何をやっているんですか?貴女」
と傘を傾げて言ったのだ。
11/5/2022, 9:56:33 AM