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ラブラドライトを知ったのは、中2の夏だ。

僕の家の隣には工場があった。何の工場だかわからないけれど、今にも崩れ落ちそうな外観をしていた。

実際、強い風が吹く日には屋根のトタンがボロ切れのように飛んでいって、市役所の職員が注意喚起に来たこともある。どうしようもないところだと、反抗期を迎えた当時の僕は思っていた。

学校に行くときは自転車をこいでその工場の前を通りすぎてゆくわけだけれど、毎朝、そこの従業員のおっちゃんとすれ違う。汚れたツナギ姿で、真っ黒に焼けた肌は汗と脂でいつもテカっていた。

うんざりするほど暑い夏のある日だった。いつものように工場前を通ったとき、煙草を吹かしていたおっちゃんに「ちょっと、ボク」と呼び止められた。


「見てみこれ。」


訝しげに自転車を降りた僕に手を招く。僕も暑さで頭をやられていたのかもしれない。面倒だと思いつつ、警戒心をおざなりにして近寄った。

おっちゃんは煙草を地面に擦りつけ、ツナギのポケットにごそごそと手を突っ込んだかと思うと、煤に汚れて真っ黒な拳をそっと開いてみせた。


「これ、本物の石よ。綺麗だべ。」


一瞬、おっちゃんの手に握りしめられていたものが何だかわからず、僕は思わず息をのむ。
差し出されたそれはまさに想定外で、まるでこのおっちゃんと工場に不釣り合いに、芳しい光の粒を湛えていた。

夏の夜の海とか、星のように飛ぶ蛍とか、幾光年の銀河とか、とにかく、そんな風にひそかに冴え渡る宇宙の底を覗きこんでしまったような気がした。


「ラブラドライトってんだ。これは宝石じゃなくて準貴石ってやつでな。曹灰長石って種類だ。こいつを俺はお守りにしてんのよ。」


ラブラドライト、と思わず反芻した気がする。
コンスタンティヌス帝とか、ネフェルティティとか、普段は片仮名が苦手なはずだけれど、その響きはうだる暑さのなかですっと耳に馴染んだ。

おっちゃん、こういうのが好きなんだろうか。
やけに詳しそうだけれど、おっちゃんはもう満足したのか、「引き留めて悪ぃんな、学校いっといで」と、そそくさとまたポケットにしまってしまった。

なんでおっちゃんは僕に石をみせたのか。

勉強していても、部活をしていても、あの不思議な輝きは中学生だった僕の脳裏に、ふとした瞬間射し込むのだった。

実家をでて、しばらくたって地元に帰ると、あの工場は新築の電気会社になっていた。
ふと、あの石のことを思い出してネットで検索してみる。『思慕』なんて石言葉がでてきて思わず吹き出しそうになった。

あのおっちゃんに思慕?それはない。
でも、もしも再びおっちゃんに会うことがあるとして、またあの石を見せられても同じ感動を味わうのだろうか。それとも、蝶の羽のような輝きに切ない思いがするのか。

あれ以来ラブラドライトを見ることは僕の人生になかったから、きっと忘れない記憶になりそうだ。


              『きっと忘れない』



8/21/2025, 7:17:39 AM