七星

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『夜の海』

白鍵と黒鍵、合計八十八の鍵盤に順番に指を載せ、音を出していく。頭の中に花畑の景色を浮かべながら、軽いタッチでメロディを奏でる。

普段は楽器演奏や合唱、ソーシャルスキルトレーニングなどのプログラムが行われているこの防音室で、私は一人、ピアノに向かっていた。

私が通っている精神科病院のデイケアは、ひどく平和な場所だ。だからこそ、時々この平和を壊したくなることがあった。でも、他人の迷惑になる行為は当然、固く禁じられている。結局、私が自由に感情を発散できるのは、防音室が空いている時に限られていた。

ピアノの練習をしたい、と申し出た時、スタッフの神崎さんは喜んで許可してくれた。普段から要求らしい要求をしてこなかった私に対して、神崎さんもどのように接するのがベストなのかわからずにいたのだろう。やっと自分の意志を表明してくれた、とばかりに、喜んでピアノを使わせてくれるようになったのだった。

元々、私の家は音楽一家だ。両親も四つ上の姉も、そして私自身も、幼い頃から何らかの楽器を習わされてきた。だから名曲と言われるようなクラシックの難曲であっても、私はそれなりに弾ける。

でも、ここではクラシックは弾かない。代わりに、両親や祖父母が聴いたら確実に眉をひそめるような、最近のポップスを弾く。

ウォーミングアップを終え、私は深呼吸をした。そして、夜の凪いだ海をイメージしながら、ゆっくりと鍵盤に触れた。

今頃、隣の部屋ではアートのプログラムが行われているはずだった。神崎さんも、アートの担当だ。隣の部屋に聞こえるように、私は少し強めのタッチで曲を弾き始める。短調のメロディが部屋に響き渡り、曲の悲しげな雰囲気に呑まれそうになった。以前ならば、曲の雰囲気に呑まれることなどなかったのに、不思議だ。心を病むということは、悲しみに呑まれやすくなるということなのだろうか。

脳裏に浮かんでいる夜の海が幾分荒れてきた。その拍子に、考えたくもない過去のことがよぎる。

病気になる以前、私は両親と祖父母の人形を演じ続けてきた。ポップスのよい部分を理解していたにもかかわらず、家庭の方針でポップスを遠ざけ、クラシックばかりを聴いてきた。

そして抑圧された思いは、恐ろしいほど歪んだ形で表れた。私は男に狂い、女子大の同級生たちが付き合っていた男たちを次々と奪っていくようになった。飽きれば相手をぼろ屑のように捨て、次の男に狙いを定めた。意に反して捨てられそうになった時には、狂ったように自分の手首を傷つけた。結局、私は自傷をやめられずに入院した。それをきっかけに、付き合っていた男たちも、ほんの僅かな友人も、信頼していた人たちでさえも、皆が私から離れていった。

今でも時々、デイケア内で男漁りをしそうになる自分がいる。そういう時、私は夜の凪いだ海を思い浮かべるようにしている。夜の海は私の中にあるどす黒い感情を鎮めてくれるのだ。

心が少し落ち着いた所で、曲を変える。今はただ、家族という硬い檻を破壊しなければならない。

三年ほど前から流行っているダンスボーカルグループの曲を選び、夜の海をイメージしたままで弾き始める。暗い過去の呪縛から脱却したい時によく弾いている曲だ。夜の凪いだ海に、すっと甘酸っぱい風が吹くような、そんな心地よさがあって気に入っていた。

いつか本当の意味で人を愛せるようになりたい。そして、ここから抜け出したい。まだ今は、誰かを守りたいなんて思ったことはないけれど。

人としてどこか足りない私が奏でる音で、いつか誰かを癒せるだろうか。いや、今はそこまで考えなくていい。夜の暗い海を彷徨っている私でも、いつか視界の開ける時がくるだろう。強い願いを込めて、私はピアノを弾き続ける。

8/15/2024, 12:39:34 PM