与太ガラス

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 出張で訪れたのは、ずいぶんと田舎の町だった。駅の周りには寂れた売店しかない。この町で長期滞在すると思うと心がしぼんだ。スマホを見ると電波はあるようだ。Wi-Fiは検索してもひとつも出てこない。

「唐方さんですよね。ようこそおいでくださいました」

 駅前でキョロキョロしながら佇んでいると、恰幅の良い丸メガネの男性に声をかけられた。ありがたいことに地元の方が車で迎えに来てくれていたのだ。

 駅から町内へ向かう車中から、川沿いに広がる桜並木が見えた。ちょうど開花し始めている頃だった。

「唐方さん、いいときに来ましたね。ここ、地元では有名な桜の名所なんですよ」

 わたしが桜を見ていることに気づいたのか、ハマノと名乗るその男性が運転しながら話しかけてきた。どこまでの範囲を地元と呼ぶのかわからないくらい民家が少ないが、地元の人がそう言うならそうなのだろう。

「そうなんですか」

「そうだ、今週末に町内で花見をするんです。もし良かったらご参加いただけませんか?」

「よそ者のわたしが急に参加してよろしいんですか?」

 田舎のコミュニティの閉鎖性が頭をよぎった。わたしのようなよそ者を受け入れてくれるんだろうか。

「ええ、もちろんです。花見は人数が多いに越したことはありませんから」

 長い滞在になる。付き合いを避けるより町に馴染んでおくべきだろうか。それなら地元の人に顔を覚えてもらうにはいい機会だ。わたしはこの申し出を受けることにした。

「では、よろしくお願いします」

「はは、そうこなくちゃ」

 車は田んぼに囲まれた道を進んでいった。



 仕事は平日のうちにつつがなく片付き、わたしは無事に町内のお花見に参加することができた。会場は最初の日にわたしが見た川沿いの桜並木ではなく、キャンプ場のような山の中のひらけた場所だった。都会のお花見とは違って場所取りの必要はなく、広大な緑の絨毯の上にピクニックシートを広げて楽しんでいる。人の数より桜の木の方が多いぐらいだ。この一週間で桜も満開になっていた。

「すごいですね。この景色を見られて良かったです」

 招待してくれたハマノさんに向かって言った。わたしは一面に広がる桜の園に目を奪われていた。

「喜んでもらえて嬉しいです。じゃあ、一杯やりましょう」

 ハマノさんが差し出したのは、幅広の、これは、えっと、盃(さかずき)だ。底が浅くて裏側に台がついている赤い器。和風の結婚式で見るような大仰な器だ。

「どうかしましたか?」

 無言で固まっているわたしの顔を見てハマノさんが聞いた。

「あ、その、ずいぶん本格的だなと思いまして。缶ビールで乾杯とかを想像していたので……」

「ああ、都会の人はそう思いますかね。この辺りではこの盃で酒を飲むのが一般的でして。特にお花見の時は」

 この辺りの古い風習なのだろうか。周りを見るとお酒も日本酒しか用意されていない。お酒は大好きなのでありがたく頂こう。真っ赤な盃に澄んだお酒が注がれていく。

「いただきます」

 わたしは注がれたお酒をくいっと煽る。ほのかに甘みのある優しい味わいだった。周りを見ると、町の人たちは語らいながらも桜の美しさに目を奪われている。桜は風にそよいでその花びらを宙に漂わせている。

「みなさん、桜を楽しんでいますね。ほらよく、お花見なんて酒を飲むための口実だ、なんて言うじゃないですか。ここの人はちゃんと桜を楽しんでる」

 わたしがそう言うと、ハマノさんはニコリとしながら言ってきた。

「そうなんです。私たちにとってお花見は特別な行事なんです。言ってみれば一年の健康を祈願するようなものです」

「健康祈願? お花見が、ですか?」

 そう言っている間にも桜の花びらはヒラヒラと舞い、私たちの飲んでいる盃の広い水面に何枚も着地している。ハマノさんは花びらの浮いた盃を手に取り、そのままぐいと飲み干した。

「あ、いま、桜の花びらが」

「ふふ、これが健康祈願なんです。少しお話ししましょうか」

 そう言ってハマノさんは語りはじめた。

「日本全国その昔、花見と言えば桜の花びらを食べるのが定番だったんです。桜の花を食べると健康になるなんていう触れ込みで、みんな花びらを食べていた。実際、桜の花びらは食用に作られているものもあります。塩漬けを煮出して桜茶にするとか、おにぎりに混ぜるなんてこともある。この町ではその習慣が残っているだけのことでね」

 習慣と神事が重なった民族伝承のような話だ。あとで調べたら桜の花びらにはビタミンなんとかが含まれていて、薬効もあるらしい。

「でもこの伝統的な花見にはルールがありましてね。『酒を飲むなら桜とともに』というものです」

「桜とともに……」

「酒の注がれた器に、花びらが入っている時だけ飲んでいいんです。それまでは周りの人とおしゃべりを楽しむ」

「それはなかなか難儀ですね」

 酒飲みにとっては堪らない。エサを前にして待てと言われた犬のようだ。

「そう。だからみんなじれったくなって、そんな風習は廃れていったわけです。酒飲みは好きなように飲みたいですから。でも我々はその伝統を守っている。はじめはみんなお猪口で飲んでたんですよ。でもそれじゃあ全然花びらが入らない。そこでしたたかな町の人たちは考えた。口の大きな盃にしたらいい」

 ハマノさんは盃を指差す。トンチみたいな話だが、なるほどなかなか説得力がある。

「あの言葉だってそうですよ」

 ハマノさんはもう一息酒を煽って言った。

「『桜は散り際が美しい』あれは酒飲みが作った言葉だ」

 そうかもしれない。そうに違いない。わたしは自分の盃に花びらが漂っているのを認めて、一口で酒を煽った。

4/5/2025, 2:18:34 AM