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あの夏の歌姫

 高1の夏。あれは一生忘れられないものとなるだろう。
遠い日の記憶ではあるが、きっと、忘れない。忘れられない。
 
「あー忘れ物したわ、先帰って。」
「おい……道枝!」
下駄箱に降りたところで気づいた数学の課題。ワークがものすごく分厚いのだ。蒸し暑い階段を駆け上がって教室へと足を運んだ。その時だった。
「 歌声 歌声 でも君は泣いていたんだね 」
透明な歌声が聞こえる。
その声にはなんとも言えない魅力があった。
可愛らしい、なんてものではなくて。そんな5、6文字じゃ表せないものだった。その魅力は 山よりも高く、海よりも深い みたいなやつだった。少しだけ、覗いてみた。誰なのか、知りたかったからだ。
「……家津さん?」
家津さんといえば、いっつも窓の外を眺めて不思議なオーラをまとったクラスの女子だ。成績はトップで、先生からも好かれて、いわゆる優等生ってやつ…?
 もっと聞きたい、って思ってしまって結局教室には入らなかった。家津さんが立ち上がるタイミングで、走って逃げた。
 その日から俺は家津さんの歌声を聞きに行くようになった。壁の向こう側の声を聞きながら、うっとりする。その時間がなんだか幸せに感じられた。きっと家津さんは気づいていない。俺の存在に。
「道枝くん。ギター弾ける?」
えっ、と声が漏れる。バレてたのか、俺…。
「いつからバレとったん…?」
ん~、と言った後に「いつだろうね〜」と濁されてしまった。
「ギター…弾けるの?」 
優しさのある声で俺に質問を続けた。
「一応、弾ける…けど。」
家津さんの歌を聴いてから、必死に練習した。いっつも歌うあの歌の名前も知らないまま、ひたすらに。
「ずっと壁の向こうで聞いてたんやろ笑」
意外とフラットな雰囲気で会話は続いた。
そのまま窓がきんぴかになるまで、2人で話した。楽しかった、というか、もっと知りたい、って思った。人に興味を持ったんだ。
「じゃあ今日のことは、秘密で。」
この日のことは、永遠の秘密ってやつになった。
それからは話しながら、一緒に歌ったり、ギターを弾いたりするようになった。
その度ぎりぎりスクープされない、お忍びデートみたい、なんてばかみたいなことを思う。
 いつも通りに、学校へ行った。ヘッドホンを持って。家津さんがよく聞くうたを流しながら。
「家津さん転校だってさ。」
クラスメイトから聞こえた声。え?なんそれ。
何も聞いてないよ、俺。それすらも秘密にされてたの。
それからという日、家津さんは本当に学校に来なくなった。転校。なんでだろう、なんて考えが頭の中をめぐる。
あーあ、せっかく大切なもんができたのに。
せっかく楽しい時間を見つけたのに。


 春から大学1年生。大学へ行く前に公園に立ち寄った。
「 歌声 歌声 でも君は泣いていたんだね 」
あれ?これ、聞いたことある。
「久しぶり、道枝くん。」
優しい笑顔をした家津さんが、目の前にいた。
「な、んで…?」
「まあまあ、気にしないで。」
昔と変わっていなかった。声も、喋り方も、伏し目も。
やっと出会えた。遠い日の記憶の中。あの夏の歌姫と。




7/17/2024, 3:46:12 PM