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恋というほど熱のある関係でもなかったし、と言われてそれもそうかとは思ったけれど、発熱するような瞬間はなくてもそれでも、彼がよかったし、彼でよかったと思うこともたくさんあって、挿入のないセックスはいつでも気分がよくなったし、「そういえば」と予定を確認し合うのが好きだった。好きだったんだなと思って、でも、まあ、わかる。彼の言っていることのほとんどをおれは理解できなかった。理解したくないだけだろうと彼には言われたこともあって、そうかもしれないなくらいにはおれも思って、とはいえ、それ以上深く考えたくはなかった。今を否定することになりそうだったからだ。今、ここで、おれは安心して生活できていて、将来への漠然とした不安も直視しないですむだけの安定がここにはあって、何も変える必要なんてないのにと思うのだ。どうして今を変えたいなんて思うんだろうと不思議で、けれどその不思議について話し合うことはしなかったのだから、薄々わかっているのだ。この国は、あまねく人間社会は、まったくくそだということ。“えらい人”が思いやりにかけるなんてことは全くもってよくあるということ。どこでも、いつでも、それぞれの地獄があるということ。それを見過ごせない人はいてけれど今のここで、“声が届かない”サイズ感を維持しないと良心によるつながりは維持できないということも。本当に全く日々は地獄で、でも、だからこそ今を変えたくないのに。変えたいとか変えたくないとかそんなことを考えることさえいやなのに。考えれば不安が存在感を増し、日々が苦しくなるだけなのに。苦しくなっただけで何にも変わりもしないのに。でもあれだろう、考えざるを得ないんだろう、まあ、うん、そういううことだ。振り払えないんだろう。振り払いたくもないのかもしれない。そのもどかしさとの付き合い方をしっているのかも。おれはわからないけど。だからもう、見たくもない。苦しい人がいるなんて知ってるよだからもう見たくはない。何かする余裕も気持ちもおれにはないのだから自分が明日忘れ物をしないか余裕を持って朝出発できるか気温に適した服装ができていてあわよくば電車で座れて運が良ければ昼飯が想像より美味しくてでも食べずすぎず帰るべき時間に帰れて帰り道でなにかよいもの(お菓子でも、デザートでも、珍しい野菜や果物、お買い得なお惣菜、コーヒーでも、小物でも、服でも、洗剤でも、便利グッズでもなんでも)をみつけたりして気分よく家に帰ってさほど疲れてないななんて思いながら夕飯の準備をして思ったより美味しい食事をして以外と面白い映画でも見てふわふわと暖かな布団の中でぐっすり眠れるかどうかだけを考えていたい。でも振り払えないんだろう、だから、のらないけど対決はしない。その話題を場の中心におきたくはない。どうしてそんなことを、なんていうつもりはない、持つべき不満だし抱いていい怒りでもあるしでも、おれは、持ちたくないんだってば。わかるだろう。わかるはずだ。ここは地獄で、だからいちいち怒ってたら身がもたない。生活が立ち行かない。見なければ、その単語だ、そうやって検索したり、一報のその後をきちんとおったり、そういうニュースで手を止めたりしなければ、それを見なければ、実際見ないでいられるのに、見るから暗い気分になるんだろう。なってどうする。ほんとうに、なってどうするんだろうか。どうにもならないのに。だから別れを切り出されてただ受け入れて、もちろん渡りに船とは思わなかった生活は快適だったのだから。そんな意見の齟齬をかかえたままなんとなく生活は回るに違いないとも思っていた。そうはならなかったわけだけど。引越して、自分のスペースはずいぶん広くなって、経済的にも特に困らず、仕事も変わらず、住所変更の手続きが煩雑なだけで、名前も何も変わってないのだからただの引越しだし扶養がどうのということもないし、だからまあ、この先結婚という選択肢が現れたとして、おたがいに名前が変わらないまま結婚するならできたらいいよなとはちらっと思ったけれどそれくらい。外食が増えて、暇が潰せないのでジムに行くようになって、部屋は少しよそよそしくなり、不意のデザートも、不意の音楽もなくなって、なぞのTシャツも消えて、同じ場所にしかいかなくなり、とはいえ出会いを求める気にはならずまあ、それくらい。そのくらいなんだよ。なあ、本当は一緒に暮らしていたかったんだけどな。この地獄も彼となら、安心も信頼も安定も、そこに、あったのに。そのままでいたかったのに。その今の隙間から不安をのぞきたくなかったんだよ。だってあるのなんてわかってたんだ。わかってた。でも見たくないんだよ。おれは見たくないものを見ないでいられるんだよ、それはたぶん、わかんないかもな。

1/15/2026, 11:07:53 AM