sairo

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鮮やかな色彩に、目が覚めた。
起きてはいる。だがその表現が、今の自分には一番相応しい。
今まで、空の青の違いを気に留めたことはなかった。四季折々に咲く花の艶やかさも、その花に集う生き物の美も何もかも、知ろうとはしなかった。

「きれい」

無意識に溢れ落ちた言葉は、風に攫われ消えていく。代わりにひとひらの花びらが手の中に降ってきた。

「きれいだ」

心からそう思う。
世界はとても美しい。息づく命が愛おしくて堪らない。
手の中の花びらを風に乗せ、微笑みを浮かべた。
何も感じず、無意味に時が過ぎていくのを見つめていた頃には戻れないのだろう。
とくり、と鼓動が跳ねた。
初めての感覚。戸惑い、そっと胸に手を当てる。
とくとくと、規則正しい音を感じる。数多の生が刻むそれと同じリズムに、目を瞬いた。
生きている。
当たり前のような奇跡。泣きたくなるほどの喜びに、胸の高鳴りを覚えた。



「――あ」

揺れる輪を見つめ、ぼんやりと首を傾げた。
目を開けたまま、夢を見ていたような気がする。おかしなこともあるものだと、輪から目を逸らし、何気なく室内を見回した。
ベッドと机、棚にクローゼット。見慣れた自室の光景が、どこか物珍しく感じるのは夢の影響だろうか。
夢の残り香を飛ばすように頭を振り、ベッドに向かう。未だに揺れている輪が煩わしいが、夜もすっかり更けてしまっている。片付けるのは明日でもいいだろう。
電気を消し、ベッドに潜り込む。胸の高鳴りを感じていたが、目を閉じれば途端に睡魔に襲われる。これなら眠れそうだと、そのまま身を委ねた。



いつものように登校し、代わり映えのない教室で一日を過ごす。
周囲の視線は相変わらずだが、いつもよりは大人しい。こちらの様子を伺うような気配を感じるものの、態々相手にするのも面倒だった。


「――おい」

反応がないことに焦れたのだろうか。放課後になり、生徒が複数人でこちらに近づいてきた。

「お前、何で……っ」

生徒の言葉を、視線だけで黙らせる。
何人でいようと、所詮は子供。自分たちよりも弱い者にしか強く出れない子らの相手をするのは時間の無駄だ。
怖気づいたように後退る生徒を一瞥し、何も言わずに席を立つ。騒めく周囲など気にも留めず、帰宅するため教室を出た。

烏の鳴き声が聞こえた。
途端に、あちらこちらから小さな悲鳴や怯える気配がする。視線を巡らせれば、廊下を歩く生徒や教師までもが皆一様に俯いている。顔を上げて目を合わせることを恐れているかのようだ。
そういえばと、向けられる視線の原因を思い出した。
帰り道で烏と目が合ったと、恐慌状態に陥っていた生徒を、家まで送り届けたことがあった。その生徒は数日学校を休んでいたが、今は問題なく復帰しているはずだ。
その生徒の休みの原因を、自分が何かをしたからだと疑われた。反論も弁解も許されず、一方的な断罪を受けていた。
くだらない。内心で吐き捨てる。
親切を仇で返すのは、いつの時代になっても変わらない。一度恐怖を覚えると、猜疑心に蝕まれ支配されてしまうのは何故なのだろう。

答えのない、人間の愚かさの理由を考えながら、学校を出る。
先程よりも、烏が鳴く声がはっきりと聞こえる。『目』を警戒し、仲間に知らせているのだろう。
生徒や教師は烏に怯えているが、本当に警戒しなければならないものは『目』の方だ。
『目』という表現も正確ではない。だがそれを正しく表すことのできる言葉を、自分は知らなかった。
ただそこにあるだけのもの。しかし僅かでも覗き込めば、殆どの人間は一瞬で壊れてしまうのだろう。人間の理解を越えた先にある存在を見て正気を保っていられるなど、ごく僅かだ。

「昨日よりも学校に近づいているな」

飛び去っていく烏の群れを見ながら独り言ちる。近くに感じる『目』の気配に眉を寄せた。
最初の犠牲者が烏に『目』を重ねた理由は不明だが、今も烏と目についてしか言葉を話さないらしい。まだ当分は烏と目を合わせると狂うという噂はなくならないなと、肩を竦めて家路を急いだ。



夜。
ふと目が覚めた。
暗がりの中、視線を巡らせる。天井、カーテンレール、カーテン。
必死に輪にしたカーテンが元に戻っていることに酷く落胆した。やはり無理があったのだろうか。ならば別の方法を考えなければいけない。

「まだ朝は来ない。もう少し眠っていろ」

声がした。それは自分の声によく似ていた。
体を起こしかけた中途半端な体勢で目を瞬く。辺りを見回しても、自分以外にこの部屋には誰もいない。

「花畑は飽いたか?ならば次は海にしようか」

声は優しく語りかける。しばらく感じることのなかった悪意のない穏やかな声音に、思わず泣きそうになった。
姿の見えない誰か。
恐怖はない。自分には外の人たちの方が恐ろしく感じられる。
どこにいるのだろう。呼びかけようとして、唇がうまく動かないことに気づいた。
どうしてだろうか。不思議に思い、そっと唇に手を触れた。

「無理に目覚める必要はない。傷が癒えるまで、ゆっくりと休息を取るべきだ」

声がする。自分の口から優しい言葉が紡がれている。
一緒にいる。自分の中にいてくれる。
理解した瞬間に、瞼が重くなってきた。ベッドに横たわり、そのまま目を閉じる。
意識が沈む。遠く、潮騒の音が聞こえてくる。
もう大丈夫。
胸が高鳴るのを感じながら、甘い夢の世界へ身を委ねた。



朝の陽射しに目を開けた。
胸に手を当てる。とくとくと刻む鼓動に口元が緩んだ。

「案ずるな。もう大丈夫だ」

囁いて、体を起こす。また代わり映えのない一日を過ごすため、身支度を整えていく。
その日常もそろそろ崩れてしまうのかもしれないが。
自分には関係のないことだ。『目』を見て壊れた人間の末路など、気にかける必要はない。

「さて、急がないとな」

笑みを浮かべ、部屋を出る。
微かに烏の鳴く声を聞きながら、波打ち際ではしゃぐ自分を感じて胸を高鳴らせた。



20260319 『胸が高鳴る』

3/20/2026, 4:51:30 PM