本を開くとどこか懐かしい匂いがする。
私は子どもの頃から本が好きだった。
はじめはまだ文字も読めなかったころ、お母さんが読み聞かせてくれた絵本。いっぱい絵が書いてあって、キラキラしてて、お母さんも読むのがお上手で、いっつもわくわくした。夜、ねなきゃいけない時間になると、本だなから1冊だけ絵本を取り出して、キッチンでお皿洗い?をしてるお母さんのところにもってくと、お母さんはとちゅうでやめて、私をベットまで連れてって読み聞かせをしてくれる。そのお話はすっごくおもしろいんだけど、だんだん眠くなっちゃって、いつの間にか眠ってしまう。そんな思い出がある。
中学生になると学校の本棚に夢中になった。いろんな作家さんの本があって、日本の小説家さんだけじゃなくて海外の小説家さんの本も沢山ある。だけど、海外のコーナーは日本のそれよりも狭く小さくて、海外の方がよっぽど広いはずなのに、と不思議な気持ちになる。私は歴史小説が好きで、司馬遼太郎や山本周五郎をよく読んだ。偉人たちの活気に充ちたストーリーも名もない町人の人情溢れる話も私の心を揺れ動かした。お母さんにこの本凄く面白かったから読んでって言っても私は難しいのはなかなか読めないからといってはぐらかされてしまう。でも、今度小説に出てたどこどこに行ってみたいって言うと予定を立てて連れて行ってくれる。今度の長期休みには日本橋に行く。楽しみだな。
大学生になった。私は日本文学の、特に明治後期から昭和に書かれた物が好きで、今とは違って言葉が言葉として意味を持っていて、言論が力を持っていた最後の時代、と私が勝手に解釈しているこの時代の文学を愛していた。読むだけで新たな発見がある。読む度に印象を与えてくる箇所が変わり、時代背景を知って捉え方が大きく変わる部分もある。そんな文学の研究をしたかった。言葉を愛する物として、私に訪れた感動を、その訳柄を言葉に落とし込まないと気が済まないのである。しかし、個人に訪れた事象を普遍な事実として説明するのも烏滸がましく、敷衍するだけの知見も、訓蒙も無かった。そして、母の死という出来事も私を変えた、羸弱だった母は私が高校生の時に病床に伏し、近所の大学病院へ入院した。お見舞いに行くと母は気丈に振る舞い、すぐに良くなるから、そしたら一緒にお出かけしようねと声をかけてくれた。けれども、いざ病院から帰ると伽藍堂の家が大きな口を開けて待っている。そのまま呑み込まれると大きな不安と後悔、自責の念が込み上げる。中学生のときあんなに連れ回さなかったらもっと一緒に居られたんじゃないか、このまま会えなくなったらどうしよう。いろいろ考えた。考えて、泣いた。ただひたすらに。そのまま、母とのお出かけが叶うことは無かった。それを機にあまり文学という物に熱心になれなかった。文学の事を考えると、優しい母の顔を思い出す。思い出せば思い出すほど辛く、苦しくなる。
え、もう、読み終わっちゃうの?これでお終い?こんな中途半端な内容で?続きはどうなるの?私のの心は満たされないままなの?読者の感動を誘うために勝手に母を殺されただけの私をどうか終わらせないで
僕はつまらない本をそっと閉じた。
#好きな本
6/15/2023, 4:25:42 PM