ゆかぽんたす

Open App

がちゃん、と音がしたので玄関の方へ行くと彼女が帰ってきたところだった。でも、様子がおかしい。
「おかえり、どうしたの。ずぶ濡れじゃん」
「ただいま」
「傘、持ってかなかったの?」
「うん」
彼女の素敵なスーツは頭から足の先まで雨でずぶ濡れだった。僕は急いで洗面所からタオルを取りにいく。ついでに浴室のお湯はりボタンも押した。
「そのままだと風邪引くよ。お風呂湧くまで待つようだから着替えな」
「うん」
ヒールの高い靴を脱いで、彼女は狭い廊下を足取り重く歩いて行った。僅かに見えた彼女の横顔には濡れた髪が張り付いていた。でも果たしてそれは雨なのか。
寝室に消えてゆく彼女の背を見送ると僕はキッチンに行きお湯を沸かした。戸棚からココアを探してそれを作る。甘い香りがふわりと広がる。そこへ着替えた彼女が戻ってきた。頭にタオルを被っているから表情はよく分からない。けれど、浮かない顔をしているのが想像できる。とりあえず、部屋にこもらないでくれて良かったと思う。
「どーぞ」
座る彼女の前にココアを置いた。電気を点けて、雨戸を閉める。外はだいぶ暗くなっていた。夏が終わるとあっという間に日の入り時間が早くなる。
「前、座っても良い?」
「うん」
一応許可を取って、彼女の前の椅子に座る。ようやく見えた顔はやはり泣き腫らした目をしていた。落ち着くから飲みなと促すと、彼女は静かにカップに口をつけた。
「今日ミスしちゃった」
「仕事?」
「うん」
彼女はとてもストイックで、仕事に対する気持ちは常に真っ直ぐだ。それくらい彼女の請け負う仕事はやり甲斐があって、本人も思い入れが強いのだろう。僕の知らない世界で他の仲間にも負けずに活躍する彼女はいつも凄い人だと思っていた。でもその仕事に関して何かミスをしてしまったらしい。成程その涙の正体は悔し涙だったのかと分かった。
「お疲れ様。頑張ってるね、いつも」
僕はただただ、彼女の努力を認めることしか言わなかった。ミスなんて誰でもするよ、とか、そういう日もあるよ、みたいな慰めは彼女にとって逆効果だから。それに出来もしない僕が、そんなことよくあるよみたいな軽口叩くのは違う。彼女の仕事の内容も重圧も僕は知らない。でも、毎日一生懸命頑張ってる姿は誰よりも見てる。極端な話、彼女が居なくても代わりはいるだろうけど、こんなに真剣に思い悩んで涙する彼女は僕が知っている人間の中ではたった1人だけだ。そしてそれはとても格好良いことだとも思った。
「キミの一生懸命なところが僕は好きだよ」
雨で濡れて冷たくなった彼女の頭を撫でた。滅多に弱音を吐かないキミが、唯一自分らしくいられるように。この空間だけはいつでも優しく暖かい場所にしておきたい。世界に1つだけ、キミがキミらしくいられるのがここだよ。
その時、浴室からメロディーが聞こえた。お風呂が沸いたことを知らせる音。
「お風呂沸いたって」
「うん」
「あったまっておいで」
「うん」
「一緒に入る?」
「ううん」
「……そこはさぁ」
流されずにうんとは言わないところがキミらしい。断られたのは悲しいけど、キミらしくいられてるのが確認できたから良しとするか。きっと明日は大丈夫だよ。

9/10/2023, 8:15:12 AM