何気なく読んだSF小説がある。
気まぐれに足を向けた図書館で、適当に手に取った本。
その本のあらすじは、人の記憶を脳内に埋め込んだチップを媒介して売ったり買ったりできる世界で生きる、五人の主人公のオムニバス作品だ。
全部は読めていない。借りるつもりはなかったし、時間もなかった。その上随分分厚いのだ。
だから、物語がどう進んだかや主人公たちがどんな結末を迎えたかは知らない。
ただその小説の、人の記憶を売り買いできる、という設定だけが僕の頭に残っていた。
その日の夜はひたすらに寝付きが悪かった。
目を瞑ってもどうにも眠気が来ず、虫の声と扇風機の音を聞きながら布団の中でのたうち回っていた。
そうしていると、どうにも昔のことを思い出してしまう。そこで僕は考えた。
あの小説のように、僕の記憶も売ることができたら…?
小学生時代を、売ってみようかと思った。
僕はクラスに馴染めず、いじめこそされなかったが、友達もおらず、いつも一人で遊んでいた。
故に、楽しくもない学校生活の記憶を売っても、差し当たりないと思った。
…ちょっと考えて、売りたくないなと思った。
確かに僕には、友達はいなかった。クラスからも浮いていた。
だけど、運動会は…楽しかった。準備も含めて、本番も全力でやった。優勝できた時は、跳ね上がりたい気持ちだった。
図書室で読んだ好きな児童書があった。内容もタイトルも忘れてしまったけど、表紙の絵だけは朧気に覚えてる。
毎回図書室に行っては、その本の続きが借りられてないか見ていた。借りられてたら…別の本を読んだ。
放課後、そろそろ帰った方がいいと司書さんに言われるまで、のめり込んだものがそこにはあった。
…友達とまではいかなかったけど…少し話をする子がいた。
六年生の終わり。…つまり卒業を間近にしたころ、理由は忘れたが、なぜか話すようになった子がいた。
名前も顔も…うろ覚えだけど。確かに楽しいと思う時間があった。なんでもっと前に話さなかったんだろうと思ったほどだった。
思い返せば、売っていい思い出などなかった。
じゃあ中学生時代は、と考えた。
小学生時代以上の孤独。何気なくクラスメートから避けられているように感じたあの時間。
陰鬱な気持ちばかり蘇るあの時。売ってしまっても…いや、売るという形で捨ててしまいたい。
…ちょっと考えて、また売りたくないなと思った。
あくる日のテストで満点をとれたことがあり、寿司を食べに行った日があった。
あの時の親の喜びようといったら…ちょっと引くぐらいだった。
その日は、恥ずかしくも誇らしく…親孝行できたのかな思った。
修学旅行は楽しかった。班の人となぜだかめちゃくちゃよく話せて、全力で遊んだ。
遊びに来てんじゃないぞ!と担任の先生に怒鳴られたことさえ楽しい思い出にできるほどだった。
高校受験に受かった日。受験勉強に付き合ってくれていた先生が号泣したの思い出した。
受かりました!と報告したらタバッと涙を流して…。
もともと涙もろい先生ではあったけど、良かったなぁと泣きながら言ってくれた先生を見てあぁこの人に出会えて良かったと心の底から思えた。
思い返せば、売ってもいい記憶なんてなかった。
結局、僕は記憶を売れそうにない。
嫌なことばかりだからと考えていた記憶は、捨てるのだと思う程捨てたくないと思うような、忘れていた楽しかったことや、嬉しかったことを見せてきた。
今はどうか。
クラスからやっぱりほんのり浮く高校生活。
楽しいと思えるとこも…いや、あるもんだ。
駄目なことばかり目につくが。嫌なことばかり思い出すが。
それでも捨てるとなると捨てたくなくなる…そんな良い記憶ばかり蘇る。
寝返りを打つ。ほんのりと眠気が襲ってくる。明日が近づいてくる。
瞼が重くなって開かない。ってか開けたくない。
そんな風になって、気づけば寝てるんだろう。
自分はとことん出来損ないだ。…いつも、そう思っている。嫌な記憶達が、それを証明している。
でも、悪い所ばかりじゃない。良い所も、沢山あった。
少なくとも、捨てたくないと思う程…大切なものが。
…沢山の出来事が、僕自身を作るなら。
今の僕が出来損ないでも、仕方ないじゃないかとふと思った。
だってまだ…僕っていう人間は完成していないから。
嫌なことも、良いことも詰め合わせて、自分を作っている最中だから…。
眠気にあてられ、そんなことを考えていることに気恥ずかしさを覚える…本当に眠い…。
…何も考えられなくなって…。
気付いたら、朝日が差し込んでいた。
スズメだかなんだかの鳥も鳴いている。
今日も憂鬱な気分になるけれど。
少しだけ、いつもよりほんの少しだけ、頑張ってみようと思った。
きょうのおだい『不完全な僕』
8/31/2023, 6:06:59 PM