赤とんぼ

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【楽園】


私は俗に言う不良、というもののようで、学校は一週間に二回程度しか行かなかったし、親もそんな私を放置して遊び歩いているので、何の問題もなかった。単位が取れずに留年するのは問題だが、なら高校を辞めればいい。金に困ればパパ活でもして生きていこう、なんて人生を軽く見ていた。
今日、私は廃墟になったビルに忍び込んだ。というのも、実は道の真ん中にパトカーが止まっていたからだ。童顔な私は、平日の昼間に一度警察の目の留まろうものなら、「学校は?」「親御さんの連絡先は?」としつこく聞かれてしまうのである。という訳で、警察から隠れるために廃墟のビルに入ってしまった。この判断が全ての過ちだったのである。

私は、ビルの窓からパトカーが動くのを待っていた。待てども待てどもパトカーが動かないので、いつしか私は眠り込んでしまった。

目が覚めると、知らない男が私の顔を覗き込んでいた。驚いた私は「うわぁっ」と短く叫んだ。何せ男は、言葉通り目の前、顔を動かせば頭がぶつかるような距離にいたのである。
「だ、誰だよお前!」
私は突き飛ばすように男の胸に手を当てて押そうとしたが、私の手はすっと男の体を貫通した。
「ひっ!」
私は怯え、四つん這いになりながら、必死に男から距離を取った。寝ぼけていたので最初は分からなかったが、よくよく見ると男は少し透けていた。ということは、実体がないのである。なのに私には男の姿がありありと見える。不思議な心地だった。
男は異常なほどに青白い肌をしていた。顔色が悪いというレベルではない。白いというより、むしろ灰色に近いのではないだろうか。だが、男の髪は驚くほどに白く、とても美しいものだった。長い前髪で顔はよく見えなかったが、瞳が真っ黒で、私の顔を反射していた。男は痩せていたが長身で、丸腰の女子高生が戦って勝てる相手とは思えなかった。

殺される、

男に実体がないと悟った私は真っ先にそう思った。
逃げなくては、と思い少しずつ扉の方へ後退りした。すると男はにんまりと笑って、私の両手を自分の両手で掴んだ。というより、繋いだに近いかもしれない。男の手は冷たかった。
「君には僕が見えるんだ、」
男は抑揚のない声でそう言った。
男は先ほどと同様に、ギリギリまで顔を近づけ、私の顔を見つめた後、嬉しそうに微笑んだ。
「君が、好きだ。」
そこからの私の記憶は曖昧だ。
詩に出てきそうな愛の言葉をひたすら私に囁いたかと思えば、私の顔や体を興味深そうにじろじろと見つめている。
「やめて!」
痺れを切らした私は男を睨み、怒鳴りつける。
「あんた、誰なの!?なんかさっき触った時、透けたけど!人間じゃない奴に、急に好きとか言われても意味わかんないから!」
私は一気に捲し立てる。
男はじっと私の顔を見つめている。感情の読み取れない顔で。
今度こそ、、殺されるかも。
そんな考えが頭をよぎる。
「そっかぁ!僕のこと知らないもんね。」
男は何故か納得したようで、ポンと手を叩いて、気味の悪い笑顔をこちらに向けている。
「僕はね、もうずーっと前に死んでるんだ。生前の記憶はなくて、ずっと一人ぼっちで、みんなは僕のことが見えないみたいだし、寂しかった。けど、もう君がいるから大丈夫。ここは薄暗くて、寒くて、でもね、君がいればどんな場所でも楽園になる気がするんだ。」
男は訳の分からないことをひたすら語った後、にっこりと笑って私の手を握った。触れるはずもないのに。
「僕のお話はもうしたよ。次は君の番。」
私はその言葉を無視し、急いで部屋を出る。
あいつは私の体に触れられないのだから、止めようがないはずだ。
転びそうになりながらも階段を駆け下り、ビルの外に出る。パトカーはもういなくなっていた。私は全速力で家までの道を走る。家に着くと、私は玄関の鍵を閉め、床にへたり込む。
戸締まりをする程度であの化け物を防げるのか分からないが、それでも気休め程度にはなるはず。
十分ほど息を整えたところで私は立ち上がり、リビングへ向かう。ゴミ袋とビールの空き缶が散乱する廊下を抜け、リビングへの扉を開く。
私は目の前の光景に息を呑む。
そこにいたのは、紛れもなくあの男だった。
「なんでっ…!」
私は尻もちをつく。腰を抜かしてしまった。立ち上がれない。
「好きな人のことだからね。どこへ行こうと分かるよ。」
男はいつもの気味の悪い笑みを浮かべて私に手を差し伸べる。
「転んだね。大丈夫?」
男は例の如く抑揚のない声だったが、なぜだか私を心配しているような気がした。
「触れないから。」
「そういえばそうだね。」
私が冷たくあしらうと、男はハッとしたような顔をした。目元が前髪で隠れているので表情の機微が読み取りにくい。
「私を、殺さないの?」
「えっ?殺すだなんてとんでもない!君のことが大好きだからね。痛いことはしないよ。触れないのは残念だけどね。でも君が死んだ後ならいつでも触れるから寂しくはないよ。だから、あまり長生きしないでね。」
相変わらずこの男の言っていることは理解できない。だけど、ひとまず殺す気がないということが分かって、なんだか拍子抜けしてしまった。
あろうことか私は、「まあ危害を加えないならほっといてもいいか」なんて思ってしまったのである。その私の変化を読み取ったのか、男は今までより一層嬉しそうな顔をして、「愛してるよ」なんて言って、触れもしないくせに私を抱きしめてきた。その男の腕の中はひんやりしていて、不覚にも安心してしまった。

その日から私とその幽霊野郎との生活が始まった。
こいつはやはり私にしか見えないようで、勝手に好きな時間に家に入ってきては、ちょっかいを出してくる。私は最初はうざいと思っていたし、まだ殺されるかもしれない恐怖があったが、私の唯一の話し相手でもあるため、次第に自分から話しかけたり相談したりするようになった。一度こいつが、どうしても名前が欲しいのでつけてくれと頼み込むので、『ポチ』という名をつけた。流石に怒るかなと思っていたが、どうやら気に入ったようだった。幸せな脳みそだな…。

「陽乃はいつもそれを食べているね。」
陽乃というのは私の名前だ。
「僕はもっと料理って時間のかかるものだと思っていたなぁ。どの人間もそればっかり食べるのかい?」
ポチは全く悪気のなさそうな声でそう言った。私の手にはカップラーメンが握られている。
「違うよ。そういう家もあるけど、普通の家はちゃんとした時間のかけられたご飯を食べることの方が多いと思う。」
「陽乃の家は普通じゃないの?」
「お母さんは私のことが好きじゃないんだ。だから時間のかけたご飯をくれないの。」
「陽乃のことが好きでない人なんているんだね。」
「いっぱいいるよ。」
「え!?そうなの?例えば?」
「お母さんもだけど、学校の人たち。お隣さんとか。私のことが好きな人なんて、ほとんどいないと思う。」
「へぇ、変なの。陽乃はその人たちが嫌いなの?」
私のラーメンを食べる箸が止まる。
私は一呼吸置いてから、ポチの方を見て答える。
「大嫌い」
私はまたラーメンに視線を移す。
「でもその人たちに頼らなきゃ生きていけないんだ。みっともないよね。」
私は自嘲的な笑みを浮かべてそう話す。
「殺そうか?」
ポチがいつもの何を考えているのかわからない声でそう答える。
「…できるの?」
「できるよ。人を殺すのはやったことがないけど、陽乃のためなら頑張るよ。」
私は数秒固まった後、再びラーメンを食べ進める。
「でも殺しちゃ駄目。やったらあんたのことなんかもう嫌いだから。」
「ええ、それは困る。」
ポチは少し泣きそうな顔をした。
けれど、私は少し安心した。
「ポチ。」
「なぁに?」
「明日、学校に行こうと思うの。」
「へぇ。よく分かんないけど、出かけるの?」
「うん。一緒に来て欲しい。」
そう言った瞬間、ポチは目を輝かせた。
「いく!」
私からポチをどこかに連れていこうとしたことが初めてだったからだろう、ポチは嬉しそうに答えた。
犬みたいだ。名前をポチにしたのは正解だったかもしれない。
学校に行こうと思ったのは他でもないポチがいるからだ。もし何か言われても、ポチに殺せと言えば嫌な奴は消える。そうする気なんてさらさら無いが、ポチの後ろ盾があると思えば、幾分楽な気がした。母親と話す時もそうしよう。ポチが後ろに立っていれば、あの母親も寒気がして怒る気がなくなるかもしれない。

ポチは私の唯一の話し相手で、後ろ盾だ。
もしポチが明日いなくなったとしたら、私はパニックになるかもしれない。私も存外、ポチに依存しているのかもしれないな。
「ねぇ、ポチ。」
「何?」
「ポチはさ、私がいればどこででも楽園、って前に言ってたよね?」
「そうだね。」
「じゃあさ、私から離れていったりしないでね。」
そう言うとポチは今までに無いくらい嬉しそうに、満面の笑みを浮かべて
「うん。」
そう呟いて、触れるはずのない私の髪を撫でた。

4/30/2026, 3:03:27 PM