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【小説  勿忘草】

真っ黒なスーツに身を包んで、久しぶりに通る道をゆったりと歩く。
久しぶりに帰ってきた故郷は相変わらず潮の匂いがして、日本からずっと離れたところから吹いてきた風が手に持っていた青い花を揺らしていった。
海風が吹いてきた拍子に目にかかった前髪を払いながら、俺は一人歩みを進める。
そういえば、昔は左側が暖かかったな。
歩くたびに、揺れる花束から数枚の花びらが舞っていく。まるで俺の帰り道を記すように落ちていくそれに、思わず笑ってしまった。
お人よし。
その言葉がよく似合うやつだったか。

ふと、花束を買った時の出来事を思い出した。
美しい長い髪を持つ可愛らしい若い女性の店員さんが、花束を包んでくれた時のことだ。
花屋の前でどの花にしようか悩んでいた俺に、彼女は優しく気に入った花ではどうでしょうかと提案した。
それはいいなと俺は思わず目の前にあった青い花を指さしたのだ。
「あら。勿忘草とは、良い花をお選びになりますね。」
勿忘草を摘み上げた彼女の表情はとても優しくて、何故だろうかと見つめていたら。奥へどうぞと案内された。
少しだけ嬉しそうに、彼女は大きな紙の中に勿忘草を包み込んでゆく。その姿をぼうっと見つめていたら、不意に彼女が口を開いた。
「勿忘草には、三つほど花言葉があるんですよ。ご存知ですか?」
ちらりと向けられた視線に黙って首を横に振る。そうすると店員さんは少しだけ頬を染めて笑った。
「勿忘草の花言葉は、真実の愛、誠の愛。そして…」

私を忘れないで。

「お前からしたら皮肉か?」
辿り着いた目的地で、誰もいない冷たい石に向けて呟いた。当然返事が返ってくるわけもなく、俺はその場にしゃがみ込む。左手に持ち歩いていたココア缶と綺麗に包まれた勿忘草を石の上に置くいて。それからポケットの中身を漁ってしわくちゃになっている一通の手紙を取り出した。
「僕のことは忘れていいよ。だったか?」
赤い印の押された古い手紙を数年ぶりに開いてみれば、擦り切れた薄い文字が目に入る。
「バカだよなあ。」
淡々と書き起こされている言葉の端々に、震えがあることなんて一目みれば簡単にわかることだった。手紙の所々が濃く変色しているのも、何度も書き直したであろう消し跡。どう考えても言葉が本音だとは思えなかった。
「俺、今までお前のいうこと聞いたこと、全くなかったよな。」
問いかけても帰ってくることのない質問は、虚しくあたりに響くだけ。
側から見れば俺はただの頭のおかしな人間だろう。
成人男性が一人、黒いスーツで墓跡の前にしゃがみ込んで独り言。絵面がやばいし通報ものだ。
でも、そう思われてもいいほどに、俺には伝えないといけないことがあった。
「俺、絶っっっっっっっっっったい忘れてやんねーからな!」
大声で、それはもう近隣住民全体に聞こえるような大声量で。俺は叫んだ。勿忘草を選んだのだって、ただ単に気に入ったからではない。最初の理由はそんなくだらないものだったが、店員に教えてもらった花言葉でいいことを思いついたからだ。
「ここに勿忘草を飾っといたら。お前、ここに来る皆に『僕を忘れないでください』って言ってるようなもんだろ。」
そうやってずっと、覚えられてればいいんだよお前なんか。
大声で笑って見せると、なんだか知らぬ間に涙まで出てきて、腹を抱えて地面に膝をついた。
ポタポタと変色していく地面の色が歪んでて、うまく息を吸い込めない。
ばーか。ばーか。ばーーーーか。
途切れ途切れになってしまう俺の言葉は宙に浮かんで消えていくだけ。それがなんだか悔しくて、苦しくて、一際大きくばーか!と笑ってやった。
もしここにいたらお前は。「お前にだけは言われたくない。」だなんて思いっきり顔を歪めたんだろうな。
ああ、嫌だ。
海風が容赦なく体を冷やしていくこの寒空の中、俺はただずっと、目から流れる涙でもなく、風に飛ばされそうになる花束でもなく、寒さで感覚がなくなった手のひらでもなく、ただ一つ。
左側が冷たいことだけが気になっていた。

2/2/2024, 5:42:16 PM