『落ちていく』
私は毎年家族と訪れる湖畔の別荘に、いつもと同じように家族と来ていた。
「ここに来るのは今年が最後になりそうだ」
パパが言った。パパの会社の業績が思わしくないという話は聞いていたけど、まさかこの別荘を手放すほどなんて思っていなかった。
「美紗子、すまない」
私ががっかりしていることに気づいてパパが言ったけど、私は会社のことは分からないし、パパを責める気にはならなかった。
「美紗子、結婚の話が出ているが、気が乗らないなら断ってもいいんだぞ」
私はパパの取引先の会社の専務だったかの息子と婚約している。結婚は来年の春の予定だ。相手は私より7つ年上の三十一歳。別に不満はない。
「彼と結婚するわ」
この結婚もそうだけど、私は自分の意思で色々なことを決めることができない。敷かれたレールの上を歩くことしかできないんだ。
それは昔からで、遠い記憶を思い返してみると、幼稚園の頃にはもう既にそうなっていた。
何一つ自分で決められない私は、放っておけば結婚もできないし、何もできない。誰か導いてくれる人がいないと生きていくことすらできないんだ。
婚約者の彼は私に指示をする。少し横柄で、少し乱暴な態度だけど、一から十まで彼は指示を出してくれる。そして私が全部彼の指示に従うと、褒めてくれるし喜んでくれる。こんなに私と相性がいい人はいないと思う。
私は予定通り、彼と結婚した。そして彼は別荘を買ったと言った。
私のパパの会社は何とか持ち直して倒産とはならなかったけど、規模が縮小しているから、あの別荘を買い戻すことはできなかった。
「美紗子、君の思い出の別荘だろ?」
旦那様が連れてきてくれた別荘は、私が家族と毎年訪れていた、パパが手放した別荘だった。
特に不満はない。思い出というほど何かあっただろうか?
毎年来ていたけど、特にこれといって印象に残る思い出はなかった。だけど私はこの別荘が好きだ。湖畔の周りは木で覆われていて、人の気配がない。とても静かで、自然の中にいるのが心地いい。いつもここに来る時は若葉の季節で、緑が芽吹く澄んだ香りがする。
「旦那様、ありがとうございます」
私がそう言うと、彼は満足そうに頷いた。そして彼はそこにバーベキューセットを用意し、会社の部下と思われる人をたくさん呼んでいた。
私は彼の指示に従い、料理の下拵えをしたり、お酒を用意したり、忙しく動き回った。
「美紗子さん、でしたっけ? 課長の奥様ですよね?」
声をかけて振り向くと、綺麗な女性がいた。
「はい。そうですが何か?」
私になんの用がなるのかは分からないけど、彼女は私を上から下までじっくりと眺めた後、フッと鼻で笑った。好意的でないことは分かったけど、私は何も言わず会釈だけして、その場を立ち去った。
彼女は私の夫のそばにいて、ベタベタと腕や肩や腰に触っているのが見えた。そして夫はそれを許している。というより、そうされることが当たり前という感じで慣れている。
この時に私は悟った。私は言いなりになる家政婦であって、彼が愛しているのは彼女なのだと。彼女もまた、彼を愛していて私の入り込む隙間なんて無い。だったらどうして私と結婚したんだろう?
私は自分が惨めで逃げたくなった。しかし、私は自分の意思で逃げることができない。その行動には責任が伴って、私はその責任を取るのが怖いんだ。
そうだ。分かった。
私は自分で何も決められないのではなく、責任を負うことが怖いんだ。
誰か、私を連れ去って。
自分では逃げられない。それなら誰かが私を連れ去ってくれればいいと思った。
「課長の奥さんってこんなに若くて可愛いんですね。従順そうだし」
そう。私は従順です。話しかけてきた男の人が誰なのかは分からないけど、この人でいいから、私を連れ去ってほしいと思った。
静かで好きだったはずの場所に、大勢の声が響いていて、大きな音楽を鳴らして、打ち上げ花火なんかもやっている。
私の静かな場所を返して!
そう言えたらいいんだけど、そんな勇気は私にはなかった。全て壊れてしまえばいいのに。
「俺と抜け出しませんか?」
私に話しかけてきた男は私の手を取った。私はこくりと頷くと、彼に手を引かれ、人気のないところへ導かれた。
「俺と一緒にどこまででも落ちていきませんか?」
なんて魅力的な言葉だろうと思った。私は望んでいた。私がここから抜け出すためには、このまま彼と落ちていくしかない。それが地獄なのか、それともただ恋に落ちるというだけなのか、湖の底に落ちていくのか、分からないけど私はまた頷いた。
私が最初で最後に自分で決めた未来。
「あなたとどこまででも落ちていく」
「いい子だね」
ああ、そうだ。私はいい子なんだ。
重なる唇。私はもう怖くない。私はもう自分で決められる。
(完)
11/23/2024, 2:44:46 PM