『青い風の向こうへ』
第一章:風のない街で
東京。
コンクリートの谷間に沈む夕暮れは、今日も誰にも気づかれずに終わろうとしていた。
32歳、独身。
彼女いない歴=年齢。
名前は――いや、今となってはもう意味のない名だ。
休日の午後、後輩の誘いで珍しく外に出た。
「先輩、たまにはちゃんとした飯食いましょうよ」
そう言って笑った後輩の顔も、今はもう霞んでいる。
駅前の通りを歩いていた。
人混みの中、ふと背後から――
「きゃあああああっ!!!」
女の悲鳴。
反射的に振り返る。
ナイフを持った男が、こちらに向かって走ってくる。
目が合った。
次の瞬間、横腹に焼けるような痛み。
――ああ、俺、刺されたんだ。
膝が崩れ、視界が傾く。
遠ざかる喧騒。
血の匂い。
そして、耳元で囁くような声。
「あなたは、ここで終わるべき人ではない」
「風が、あなたを選んだのです」
「目を閉じて、風に身を委ねて」
その声は、どこか懐かしく、優しかった。
まるで、ずっと昔に夢で聞いたような――
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第二章:風の目覚め
草の匂い。
風の音。
目を開けると、そこは見渡す限りの草原だった。
空はどこまでも青く、風が頬を撫でていく。
「……ここは……どこだ?」
立ち上がると、身体が軽い。
いや、それだけじゃない。
手を見た。
知らない手。
鏡もないのに、なぜか分かる。
――顔が、違う。
「まさか……これって……」
風が吹いた。
青く、深く、どこか懐かしい風。
「……異世界転生……!?」
そう呟いた瞬間、風が笑った気がした。
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第三章:風の囁き
草原の風は、どこまでも静かだった。
けれどその静けさの中に、確かに“何か”がいた。
彼は歩きながら、自分の手を見つめる。
知らない手。
知らない体。
けれど、どこか懐かしいような感覚が胸の奥に残っていた。
「……俺は、死んだんだよな」
あの東京の街角。
ナイフの痛み。
遠ざかる意識。
そして――あの声。
「……誰だったんだ、あれは」
風が吹いた。
草が揺れ、空が鳴る。
そのとき、耳元でふと声がした。
「――目覚めたか」
誰もいないはずの草原。
けれど確かに、声があった。
それは人の声ではない。
風そのものが、言葉を持ったような響きだった。
「お前は選ばれた。
この世界に吹く“青い風”に導かれて」
「……選ばれた? なんの話だよ」
「まだ思い出せぬか。
お前の中には、かつてこの世界を揺るがした“核”が眠っている」
「……俺が、そんな大層なもん持ってるように見えるか?」
風は答えなかった。
ただ、草原の向こうから一陣の風が吹き抜け、彼の髪を揺らした。
その風の中に、微かに何かが混じっていた。
記憶の断片。
誰かの叫び。
剣戟の音。
燃える空。
「……なんだ、今の……」
膝が震えた。
頭の奥が、じんじんと痛む。
「お前はまだ“名”を持たぬ。
だが、いずれ思い出すだろう。
この世界での、お前の役割を」
風が去った。
だが、彼の中には確かに何かが残った。
――俺は、誰だ?
――なぜ、この世界に来た?
名もなき男は、草原を歩き出した。
風の導くままに。
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7/4/2025, 4:06:52 PM