〈無色の世界〉
締め切りまであと三日だった。
画面に広がるのは、白いキャンバスと、その上に打ち捨てられたように並ぶ色見本の残骸だ。マカロンピンク、オールドローズ、テラコッタ──どれを並べても、何かが違う。
正確に言えば、何が違うのかさえわからない。グラフィックデザイナーとして十年近く働いてきて、こんなふうに色の前で立ち竦むのは初めてのことだった。
気分を変えようと、午後から電車に乗った。
都心の駅を出た瞬間、視界が揺れた。広告の赤、タクシーの黄、ショーウィンドウに貼られたポップの緑。信号の青が点滅し、横断歩道を渡る傘の群れが、また別の色の層を重ねてくる。目が情報を処理しきれなくて、耳の奥がじんと鳴った。
喫茶店に逃げ込み、コーヒーをひとくち飲んでから、ふと大学時代の講師のことを思い出した。
白髪まじりの、物静かな人だった。彼は一度だけ、こんなことを言った。
「無色の世界に、少しずつ淡く色をつけていく。大体の色の世界がまとまってきたら、次第に濃くしていく」
頭ではわかっている。いつだってそうやってきた。なのに今回は、最初の一色が決まらない。淡くする以前の、起点そのものが霧の中にある。
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その夜、眠れないまま明け方を迎えた。
四時を過ぎた頃、喉が渇いてベッドを出る。台所の窓から外を見ると、世界が消えていた。
靄だった。
向かいのマンションも、街路樹も、遠くの高層ビルも、すべてが白に溶けている。色という色が剥ぎ取られて、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。電柱が、フェンスが、駐車場の車が、それぞれの形だけを残して靄の中に沈んでいた。
コーヒーを淹れる気にもなれず、椅子を持ってきて窓の前に座った。
五時になると、空の端がわずかに変わり始める。白の中に、ごく薄い黄みが滲んだのだ。ほとんど気づかないくらいの、淡い変化だった。
それから少しずつ、世界は色を取り戻していく。
電柱の茶色が、じわりと浮いてくる。続いてフェンスのさび色、街路樹の暗い緑。どれも最初は信じられないほど淡く、朝の光が角度を変えるたびに、少しずつ重みを増していった。
喫茶店の看板の赤が見え始めたのは、六時を過ぎた頃だ。あの都心で受けた衝撃とはまるで違う、静かで、必然のある赤だった。
世界は最初から、ずっと無色だったわけではない。
靄が、いちど無色に戻したのだ。そしてそこから、光が順番を知っていて、色を渡してくる。
起点は、自分で決めるものではないのかもしれない。どの色から始めるかではなく、何を削ぎ落としたときに残るか。
講師はそれを言おうとしていたのだろうか。あの静かな声で告げた言葉の、もっと手前にあるものを。
窓の外はもう、やわらかな朝の色に満ちていた。
椅子から立ち上がり、パソコンを開いた。キャンバスをまっさらにして、一番淡いグレーをひとつ、置いた。
4/19/2026, 5:47:39 AM