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「どうか、幸せに」

 彼はそう目の前で言って震えて、力がなさそうな手を私の頬に触れさせた。―――その瞬間、事切れたように彼は倒れた。病院送りになって、未だ生死はわかっていない。けども、おそらく……。

「……」
「……」

「ねえ、アンタ」
「……なんですか」

 重い空気、重い口。それでも口を開いたのは、彼の姉らしい人だった。

「あの、……あの、バカ愚弟の、どこが好きだった?」
「バカ愚弟、ですか」
「ええ、……えぇ。バカでしょ。アンタのこと、知ってるのよ。私。愚弟の昔を知りながら交際してくれてるって……自分を好きでいてくれてるって。幸せに笑ってたわ、あいつ」

バカ愚弟、なんて言いながら彼のことを話すその表情は、懐かしむようで、思い出すようで、とても優しい表情だった。幸せに笑ってた、か。

「母が死んで、女に溺れて。今度父が死んで、ヒモになって。一時期耐えられなくなって、自殺しようとして。両親を殺した仇がわかって、何も考えずにそいつを殺して。あんなバカでクズで愚かな男、他に探しても見つからないでしょうね」
「……そうですね。わかってます」

 彼を見つけたのは、路地裏だった。夜の、誰も通り掛からないような薄暗い路地裏を私が歩いているとき、彼と会った。彼は初対面だというのに、いきなり金がないからとご飯をたかってきたのだ。姉のところにも情けなくて帰れない、なんてどこか泣きそうな顔で言っていたことを、よく覚えている。

「それでも、救ってくれたのは彼でした」

 あのときの私は、自殺しようと思っていたのだ。誘拐犯に襲われる前、私は自分の首にナイフを当てていた。ここで死のうと、そう決めて。首を切ろうとしたその瞬間、私の首とナイフとの間に手を挟んできた彼は、こう言ったのだ。

「今からでも―――君はまだ、幸せになれる、って」

 彼と過ごす日々は、幸せになれていた。

「……あいつがまさか人を救えるなんてね」
「過去を聞いたとき、私がびっくりしましたよ」

救ってくれた人が、そんなことをしていたのかという意外性と、そして悩んだときの、やけにこっちをわかってくれるところの納得。

「どうか、幸せに……って、どう思います?」
「そうねぇ……幸せにしたいんだったらテメーで、そしてテメーもなれ、かな」

 ―――私は姉として、アンタたちに幸せになってほしいと思ってる。そう、彼女は言った。

「私も……私だけじゃなくて、彼と幸せになりたいです」
「……やっぱりだからバカ愚弟なのよ。こんだけ健気でいい女を待たせるんだから。そんなだったら、もう見限っていいわよ」
「そんなことしませんよ」

 私は彼と、幸せに。彼に、幸せにしてほしいのだから。

「幸せになれるまで。幸せになってからも。彼といます」

 これは彼が目覚める前の、もしくは死が確定する前の、春のちょっとした雑談だった。

3/31/2026, 11:09:30 AM