猪熊狐狗狸

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思い出すたび、拍動が止まる。
昼下がり、都会の喧騒の中で僕を見つめて笑った顔に極彩色のモザイクが踊る。
起き抜けでぐすり甘える声が、耳朶を穿ち頭蓋を振るい揺らす。
抱き止めた時に薫ったミストの香りが、鼻を突き抜けて目頭を焦がす。
繋いだ手が返す小さく可愛らしい、焼き切れた皮膚の神経の震え。
彼女を想起させる全てが拒絶反応を示す。
「無理に思い出してはいけません」と精神科医は言う。
「忘れたら許さない」と彼女の妹が言う。
「忘れてください」と彼女の母が言う。
「思い出せ」と警察は言う。
どうすればいいのかわからない。
明確な事は、ただ一つ。
このまま生きてはいられない。
手付かずの仕事を放棄して、彼女の元に向かう。
すでに日は沈み、色濃い空の下は一面一層暗い。
波音を分けて、波間をくぐり、思い出せない彼女を求める。
浮立つ足を押さえて、深みを探る。
沈んだ記憶が、深奥から呼び覚まされる。
ああ、ようやく思い出せそうだ。
あの日、沈みながらこちらに手を伸ばしていた、彼女の顔を…声を…指先の感触を…


テーマ:海へ

8/23/2024, 3:12:36 PM