M.E.

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わたしは感受性が高い。 



感受性が高いという状態は、感情を“心のアンテナ”に例えると、’’ほんの小さな電波であっても感じ取るアンテナ’’を指すと思う。



ほんの小さな電波は、常に存在しているものであるが、それを『受け取る人』と『受け取らない人』に分かれる。

『受け取る人』の中には、受け取りたいと思ってないのに受け取ってしまう人がいる。



『受け取る人』は、“心のアンテナ”(視覚、聴覚などの感覚)が受け取った分の電波(情報)を、全て同時に“心のテレビ”へ映し出そうとする。

“心のテレビ”(情報からの解釈)は、本来、受け取った電波をほとんどそのまま映像にして映す。しかし、『受け取る人』の’’心のテレビ’’は受け取った電波を正しくキャッチできないため、事実とは少し異なるように映る。

そして、それみている”心”(感情)が混乱してパニックになってしまう。
 
例えると、AさんはBさんと話していて、Bさんは疲れていて表情が暗く、気だるそうにしているだけなのに、AさんはBさんがいつもと違うことに気がついて、Bさんは自分といるからこんな様子なんだ、自分は嫌われていると思い、悲しむという状況である。



感受性が高いことで、わたしは今まで何度も悲しい思いや苦しい思いをしてきた。

受け取ったことについて悩んだとき、人に相談すると、考えすぎだ、気にしなければいいといわれるが、気にしないようにすればするほどわたしは気にしてしまって、状況は変わらなかった。



このようなことを何度も経験する度に、感受性が低ければどれだけいいかと思った。








私は、感受性が高くなり苦しむときは、“他人からの評価”を気にしていることに気がついた。

顔色や話し方、声の高さなどを、神経を研ぎ澄まして“心のアンテナ”で受信して、“心のテレビ”に映し出すことで『相手に嫌われてないか』を確認し、“心”で安心しようとしていた。

しかし、“他人からの評価”を気にしすぎると、その評価が低いと判断したときに、自分の価値を認められず、自分に自信を持てなくなる。

そして、わたしは自己肯定感が極端に低くなっていってしまい、感情が落ち込んでいってしまい、涙が止まらなくなって、これまでの環境から距離を置かなければならない状況になった。








わたしは最近、感受性が高いことは決して悪いことだけではないのではないかと考えるようになった。



わたしはこれまで、感受性が高いという特性を、『相手に嫌われてないか』を確かめるためだけに使っていた。

しかし、感受性が高いと小さなことでもうれしいと感じられたり、幸せだと思えたりする。

また、人の表情や様子から、小さな変化にも気がつける。

気がついた後には、’’思いを受け止めようとする姿勢’’で話をきくことで、思いに寄り添い、張り詰めていた気持ちが少し楽になるかもしれない。



わたしは、これまで感受性が高いという特性を、自分に対する負の感情を感じ取ることだけに使っていたと思う。

しかし、これからは、自分が幸せになるようなことや、だれかの幸せにつなげられるようなことに使いたいと思う。








わたしは、生まれてから今まで、どれだけの涙を流してきたのだろう。



そして、どんな理由の涙を流したのだろう。



わたしは、’’他人からの評価’’を気にして、ネガティブな感情に飲み込まれて流した涙が一番多かったと思う。

そして、そのネガティブな感情には、悲しみや苦しみ、悔しさ、寂しさなどが含まれていて、それらが混ざり合い、’’濁った涙’’となって流れる。



しかし、今冷静になって考えてみると、’’他人からの評価’’は、わたしの間違った捉え方によって、’’わたしが勝手に作り出した評価’’だったのかもしれない。

わたしは嫌われていると思っていたが、ほんとはわたしにそこまで関心がなく、嫌いでも好きでもどちらでもなかったかもしれない。



そもそも、’’他人からの評価’’をよくして、自分の人生はよくなるのだろうか。

‘’他人からの評価’’をよくしようと、自分をの信念を曲げる生き方をしていけば、人間関係は割とよい状態をキープできるかもしれない。

しかし、このような生き方を生涯続けると、自分がいつか永遠の眠りにつくときに、「自分の人生は他人のための人生だったのか」と思うことになるかもしれない。



もちろん、’’他人からの評価’’を全く気にしないようにしては、社会ではうまく生きていけないだろう。

大切な人のために、自分のやりたいことをがまんしなければいけないこともあると思う。

しかし、人を傷つけることだったり、法に触れたりすることでなければ、自分のやりたいことができるチャンスが巡ってきたときに、最初から絶対無理だと諦めるのではなく、ここだけは譲れないという自分の信念を貫き、誰からどう思われようが自分の人生を生きようと開き直ることで、最期のときに「いろいろあったけど、自分の人生は自分らしくて最高だった」と思えるのではないか。 

‘’他人から評価’’を気にして、ネガティブな感情が混ざり合って流す涙が’’濁った涙’’であるなら、自分の信念を貫いて選んだことを、ときどき失敗したり、路線変更をしたりしながら、がむしゃらに生きる過程で、100%自分の感情で流す悔しい、うれしい涙が、’’濁りのない透明な涙’’となるのではないか。









最期のときに流す涙が、生きてきたなかで最も’’濁りのない透明な涙’’となるように願いを込めて。












________________________透明な涙___________。

1/17/2025, 9:35:24 AM