【雨の香り、涙の跡】
僕が感じ取ったのは空気に混ざる雨の香り、見つけたのは涙の跡を頬に残した子供。その子は森の中の少し開けた場所で体を丸めて眠っていた。
どうしてこんな森の中にひとりでいるのかは知らないけれど、このままにもしておけない。こんな場所で雨に降られてはたまらないだろう。
起こすのは少し可哀想だったが、肩を揺すって呼びかけた。
「ねぇ、君。もうすぐ雨になるよ。ここで寝てたらずぶ濡れになる」
子供の睫毛が震える。髪は髪は黒いのに、あらわれた瞳は鮮やかな緑色だった。年は10歳くらいだろうか。男の子だ。
少年が僕を見てぼんやりと呟く。
「……あなたは……?」
「僕は冒険者。近くの町から害獣駆除を頼まれて来てるんだけど」
「冒険者……」
「そうだよ。わかる?」
「……ええと。ここは日本では」
「ニフォン?」
残念ながらニフォンという地名は知らない。
「あ……いえ、そうでした……地球じゃ、ないんだ」
少年が何を言っているのかわからなくて、首を傾げた。けど、あまりもたもたしてはいられない。
「とにかく。これから雨が降るから、濡れない所に行こう」
少年を連れて大きな木の根元に移動した。案の定、すぐに雨が降り始めた。
「あの……起こしていただきありがとうございます。助かりました」
「お。ちゃんとお礼を言えて偉いね」
「俺……見た目通りの年じゃないんで」
それから少年がぽつりぽつりと語り出した話は、とても信じられるものではなかった。別の世界で生きた人間がその記憶を持ったまま生まれ変わった挙句、普通の子供ではないことを理由に捨てられたというのである。
「これからどうしたらいいんでしょうか。孤児院……みたいな場所、ありますか?」
「なくはないけど、おすすめはしないなぁ」
教会付属の孤児院は、あまり良い噂を聞かない。子供はちゃんと食べることも難しく、たとえ仕事が見つからなくても早々に追い出されるという。
「君の年なら孤児院にはあまり長く居られないだろうし」
「そうですか……でも俺、行き場がないんですよね」
僕は少し考えた。馬鹿なことをしようとしていると思う。けれど、あんな涙の跡を見てしまったら、この子が憐れで放っておけなかった。
「僕と一緒に来る? 冒険者になるのには特に年齢制限はないから……」
ひとり立ちできるまであれこれ教えようかと言えば、少年が目を輝かせた。
「いいんですか!? 冒険者になるの、夢だったんです!」
僕は少年を弟子にした。彼はびっくりするほど優秀だった。魔力が多く、魔法を覚えるのも早くて、料理も得意。珍しい収納魔法の使い手で、僕の荷物も運んでくれる。
どうやらこの弟子、収納の容量が大きいらしい。食料や予備の装備だけでなく、お菓子にお茶に料理の道具、椅子やテーブル、ベッドまで出し入れできるのだ。
あっという間に力をつけて、危なげなく戦えるようになってきた弟子の姿に、つい、ため息が出た。
どうしよう。手放せない。今更地面に寝袋は辛い。できたての温かい料理も、甘いものも、迷宮の中でそんなものが出てくるのは、この子がいるからこそなのだ。
「師匠? どうしました?」
僕のため息に気付いて、弟子が心配そうな顔をしている。
「ああ……いや、何でもない。ただ、君が独立したら、不便になるなぁと」
なんだ、と弟子が笑った。
「それなら一緒に居ればいいじゃないですか。俺は別に構いませんよ。師匠、氷魔法が得意だから、冷たいものが作れるし」
弟子は「今度シャーベット作りましょう」なんて呑気に言う。
「でも、僕の都合で君を縛り付けるわけには」
「縛り付けてはいないでしょう。俺は嫌がってないんだし」
けれど、この子は同年代の他の冒険者と組むこともできる。僕より強い誰かと一緒に行動しても、きっと重宝されるだろう。
「師匠」
鮮やかな緑色の目がじっと僕を見た。
「俺の荒唐無稽な話を信じてくれたのも、魔法を教えてくれたのも、迷宮の歩き方を教えてくれたのも、師匠なんですよ?」
「それは、そうだけど」
「俺の親は『嘘を言うな』とか『気味が悪い』とか言って俺を捨てたんです。拾ってくれた師匠には、返しきれない恩があるんです」
「もう十分返してもらったよ」
「いいえ。それを決めるのは俺です。俺の気が済むまでは師匠と一緒に居ます」
「いいの、本当に?」
「もちろんです」
そう言って笑った弟子の顔はすっきりと晴れやかだった。あの泣き疲れて寝ていた子供は、いつの間にかこんな表情ができるようになっていたのだな。
6/19/2025, 3:04:30 PM