ヒロ

Open App

迷い込んだ森で出会った男は美しく、そして何より強かった。

羽ばたく音と共に空から現れたかと思うや否や、あんなにしつこく追いかけてきていた野犬の群れをあっという間に圧倒してしまったのだ。
殺すこと無く脅しを効かせ、まるでサーカスの猛獣使いのような手際で追い払う。
いや、華麗に蹴散らすその様は、戦場に舞い降りた軍神さながらと言うべきか。
泣いて転んで。助けを呼びながら逃げていた先ほどまでのことが嘘のよう。瞬く間に形勢は逆転し、狂暴だった犬たちが、恐れをなして散っていく。
最後の一匹が逃げていくのを見届けると、男は安堵のため息を吐いてこちらを振り返った。
「大丈夫?」
振り向き様に、 彼の長いシルバーブロンドの髪がしなり、月明かりを受けてきらりと輝いた。

「――神様?」
薄暗い中、徐々に浮かび上がる。神々しさまで放つその美貌に、思わず見惚れて呟けば、男は一瞬、罰の悪い表情を見せて固まった。
躊躇った後、ゆっくりと跪いて、転んだまま立ち上がれずにいる私に目線を近付ける。そうして困った顔で微笑んだ。
「ごめんね。神様じゃなくて、僕、吸血鬼なんだ」

風に雲が流れて、月明かりが彼の姿の全貌を照らし出した。
夜空を背に大きく広がる翼は黒々とし、私を見つめる瞳はルビーのように深くて赤い。
人間離れした、絵に描いたような美しさを持つ異形は、悲しそうに囁いた。

――君も怖いなら、逃げると良い。

その声はとても小さくて。吹いた風が運んでくれなければ、聞き逃すほどに弱々しいものだった。
「ま、待って!」
背を向け飛び立とうとする彼を、慌てて呼び止めた。
「じゃあ、貴方が、おばあちゃんが言っていた森の吸血鬼? 医者より物知りで、命の恩人だって教えてくれた!」
一気に捲し立てれば、彼はぎくりと動きを止めて留まった。
振り返って私を見下ろす彼は、先ほどまでとは打って代わり、信じられないものを見る面持ちで私を見つめている。
這って彼ににじり寄り、服の裾を掴んで先を続ける。
「私、貴方を探してここまで来たの。お願い、弟を助けて! 熱が出たまま三日も目を覚まさないの。街のお医者様もお手上げで。もう、どうしたら良いのか分からない。私の血でも命でも、何でもあげるから、だから――」
「血なんて、要らないよ」
言い募る私を遮って、膝を折ってしゃがみこむ。そうして足元を掴む私の手をそっと振りほどくと、転がる私を抱き起こして座らせた。
「おばあちゃんは、今は?」
土埃を払いながら静かに問う。服の汚れをはたく彼の手は優しくて。
不安に押し潰されて昂っていた私の気持ちも、釣られて落ち着きを取り戻していく。まるで魔法の掌だ。
鼻を啜って、彼の問いに答えた。
「五年前に亡くなったわ。大往生よ。孫の顔も見られる歳まで長らえたのは貴方のおかげだって、よく話してくれていたの」
「そっかあ」
そう言って彼は俯くと、「もう一度、会いに行けたら良かったな」と呟いた。
しかしそんな落ち込みを見せたのも一瞬だった。
きりりと表情を正し。再び顔を上げた彼は「ごめんね」と私に一言謝ると、あの優しい掌で私の視界を覆い隠した。反射で思わず身動げば、反対の手でもがっしりと肩を掴まれ固定される。
「ちょっと気持ち悪いだろうけれど我慢して。君の記憶を、見させてもらうよ」
「え」
私の驚きと抵抗を待たずして。
彼が何かを唱えた途端。閉じた目蓋の裏で、これまでの出来事が目まぐるしく一気に映し出された。

在りし日のおばあちゃんとの思い出。
家で倒れた弟。弟を診て首を振る医者。
助けてくれない大人たち。
藁にもすがる思いで飛び込んだ森の奥地。
迷って追われることになった野犬の群れ。
そして、颯爽と現れた吸血鬼の青年。

「ありがとう。もういいよ」
無理やり扉をこじ開けるようにして、次から次に切り替わる記憶の波に吐き気を覚えた頃。
漸く彼が手を放して、不思議な術から解放された。
頭がふわふわして気持ち悪い。
まずい、と思った直後。ぐらりと傾いた体を、彼が優しく抱き止めてくれた。
赤子をあやすようにして、肩をぽんぽんと叩かれたり、時にはさすったり。その度に気持ち悪さが引いていく。これも何かのまじないなのだろうか。
申し訳なさそうにして彼が言う。
「ごめんね、気持ち悪いよね。でも、許して欲しい。時々、嘘で誘き出して狩りのような真似をする輩もいるものだから。僕のようなはみ出し者は、用心深くもないと暮らしていけないんだ。疑いたくはなかったけれど、ごめんね」
「わ、分かったわ」
私の顔色が戻るのを確認すると、私を抱えたまま彼はすくっと立ち上がった。
高くなった視界に驚いて、思わず彼の首に腕を回してしがみつけば、端整な彼の顔が間近に迫る。
顔を赤くする私には構わずして。嫌がりもせずに、彼はにこりと微笑んだ。
「僕を頼ってくれて、ありがとう」
笑う彼の頬には静かに涙が伝う。月明かりに光るそれは宝石のようで。顎を伝って落ちた雫が見上げる私の頬も優しく濡らした。温かい。
涙の訳は分からない。おばあちゃんを偲ぶ涙なのか、それとも――。

私がひっそりと彼の気持ちに思いを馳せている間にも、彼は着々と飛び立つ体勢を整えていた。
腕の中の私に負担がかからないように抱え直し、閉じていた翼を広げて羽ばたき始める。
「君の家は――うん。あっちから来たんだったよね」
彼が見据える先は、まさしく私が走ってきた方角だ。
さっき見た記憶を辿っているのだろう。今も何かの術を使っているのか、彼の瞳は赤から金に変わっていた。
「夜が明ける前に急ごう。飛んでいくから、しっかり掴まって! 君の怪我も、あとでちゃんと手当てしようね」

バサリ、バサリ。
一層強く羽ばたいた後。
地面を蹴って、私たちの体はふわりと宙へ舞い上がった。
暗い森の上空へ飛び出し、私の家を目指して一目散に空を飛ぶ。
時折私を気遣って、頼もしく笑う彼は恐ろしい吸血鬼などではない。
私たち家族にとって、紛れもない。
美しく強い、神様だった。


(2024/07/27 title:044 神様が舞いおりてきて、こう言った)

7/28/2024, 10:02:51 AM