お題『つまらないことでも』
主様は多趣味な方だ。ミヤジさんやラトに習ってピアノ・バイオリン・チェロも一通り演奏できるようになり、今でもレッスンは欠かさない。
趣味の菜園作業はうだるような日中の暑さを避けて、早朝に様子を見に行くことが多い。畑仕事を終えると俺が用意した水風呂をひとしきり堪能すると、毎日のようにミヤジさんたちと室内楽のレッスンをしている。
……と言っても、貴族の前で歌や踊り、楽器演奏をする俺たち執事とは違い、主様はステージに立つことはないのだけれど。それでも熱心に練習するのは何故なのか。いつだったか、それをお聞きしたことがある。
「最初は演奏なんて興味はなかったの。でも、どんなにつまらないことでもひと通りやってみた方がいいって、その頃読んだ絵本に書いてあったのね。だから私もとりあえずミヤジに教えてって頼んだの。
その時、ミヤジがバイオリンで自己紹介をしてくれて。後で、これも本で知ったんだけど、何でもバイオリンの音は人間の声が出る仕組みと同じなんだって。それから私も『こんにちは、私は✳︎✳︎✳︎です』ってやってみたくなったの。気がついたら意地になっていろんな曲を練習するようになったけどね」
主様の音楽熱にそんな裏話があったとは思いもよらなかった。
主様が初めて楽器を触ったのは4歳だった。あれから8年が経とうとしている。
屋敷には今日も演奏が響いていて、そっと聴いているのは多分俺だけではないだろう。
8/4/2023, 1:59:02 PM