すな

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 嘘をついた。取るに足らない嘘だった。
 少なくともあの時の僕は、そう思っていた。


 *


 ノックをしてから病室の扉を開ける。中に入ると、ベッドから半身起こした彼女がこちらを見ていた。初めは少し不安げだったその顔が、目が合った途端、どことなく気まずげなものへと変わる。
 彼女がここに入院してから、そんな表情は何度も見てきた。だから、顔を見ただけでわかったんだ。
 今日もまた、駄目だったんだろうって。

「こんにちは。調子どう?」

 何も気付かないふりをして、顔に笑顔を張り付ける。彼女は僕の方をちらっと見て、すぐに目を逸らした。

「えっと、体調はいい、かな。……あの、ごめん。まだ何も思い出せてないんだよね」
「そう。まぁ焦る必要もないし、のんびりやればいいんじゃない」

 言いながら肩にかけていたスクールバッグを床に下ろす。僕がベッドの横に置かれたままの椅子に座ると、彼女は複雑そうな顔をした。
 不安、焦燥、困惑、疑心……表情に全部出てるなぁ。わかりやすい。

「コンビニでプリン買ってきたんだけど、食べる?」

 笑顔のままビニール袋を掲げると、彼女は少し迷う素振りを見せた後、食べる、と小さく返事をした。



 僕らは家が近所の、いわゆる幼なじみだ。歳は彼女の方が一つ上。
 親同士が友人なのと、お互い一人っ子で両親が遅くまで働いてるから、幼い頃から何かと一緒にされていた。実際昔は仲が良くて、親のことがなくてもよく遊んでたのを覚えている。
 でも三年前──僕が中三で彼女が高一になった辺りからは、顔も合わせなくなった。たまたま会ったとしても、会話もしない。目も合わせないで、知らない他人のようにすれ違うだけ。

 そして、今から二週間くらい前に、彼女は交通事故にあった。
 頭を強く打ったようで、目覚めた時には記憶の一部がとんでいた。そのとんだ記憶のうちのひとつが、僕に関することだったらしい。
 彼女は僕らの仲が悪化したことも、普段はほとんど会話をしていなかったことも、全然覚えていないようだった。
 だから、チャンスだと思ったのに。

「ねえ、この際はっきりさせていい?」

 うつむきがちに何かを考え込んでいた彼女が、急に顔を上げる。その目に以前のような意志の強さが宿っているのを見て、諦念に似た感情が湧き上がる。
 やっぱり、無理だったのかもしれない。

「今のあなたは、私が嫌いなの?」

 嘘をついた。他愛もない嘘だった。
 彼女が覚えてないのをいいことに、何もかもをなかったことにしようとした。僕らは昔から変わらず仲が良くて、今でもよく遊んでいて、だから入院した幼なじみが心配で、よくここに来ているんだって。
 そうすれば、昔みたいな距離感に戻れる気がしたから。一からやり直せる気がしたから。

「……なんで?」
「笑顔も心配も、いつもどこか薄っぺらいから」

 でも、やっぱり無理なんだろう。
 頭に記憶がなくても、どこかで覚えてるのかもしれない。覚えてるから、許せないのかもしれない。細く息を吐き出して、目を伏せる。

「嫌いだったら、わざわざ見舞いになんか来ないよ」

 僕を嫌ってたのは、君の方でしょ。
 喉元まで出かけた言葉は、すんでのところで飲み込んだ。



 早く思い出せればいいね。彼女が日常に不安を感じている様は、見ていて可哀想だ。
 ずっと思い出さなければいい。そうでいる限り、僕が君に話しかけても、咎められることはないから。

『最低』

 表情の消え失せた以前の彼女が、脳裏にこびりついて離れない。
 彼女の記憶が戻った時、きっとこの関係性は終わるんだろう。


 /『脳裏』

11/10/2024, 9:28:56 AM