sairo

Open App

「また、ここにいたんだ」

声がして、目を開けた。
逆さまの、彼の顔。寝ころんだ自分を覗き込んで笑う彼の髪を、風が揺らしている。

「なんだ。戻ってたんだ」

目を瞬き、呟いた。
思ったよりも素っ気ない声が出て、彼の笑顔にほんの少し苦さが混じる。

「冷たいなぁ……風が戻ってきてしまったんだから、仕方がないだろ」

そう言って体を起こし、空を仰ぐ。吹く風に目を細めて、彼はだからと言葉を続けた。

「もう少しここにいることにするよ。この風は旅に出れるような強さはないからさ」

見下ろす彼の目。
しばらくその不思議な色をした目を見つめて、小さく息を吐いた。

「そう」

やはり淡々とした声が出て、彼の視線から逃げるように目を閉じた。

「やっぱり冷たいなぁ」

笑う声。隣に座る気配がして、密かに強く手を握り締める。
期待をしてはいけない。そう何度も繰り返す。
彼が何かに縛られることはないのだ。
風に身をまかせ、ただ過ぎていく。そこでの出会いを楽しみ、けれど別れを惜しむことはしない。
次に強い風が吹いた時、彼は迷いなく風と共にここを去るのだろう。
ここから動けない自分とは違う。きっと彼という存在が風なのだ。

「なぁ」

呼びかける声がした。とても穏やかな声だった。

「なに」

それに返す声は酷く冷めている。彼の声とは正反対の、温もりのない声音。

「風を、捕まえておくことはできないよ」

柔らかな風が草葉を揺らし、髪や服を撫でて去っていく。

「知ってる」

思わず手を伸ばしかけ、止めた。
手を伸ばしても意味がないと、今では理解してしまっている。

「ただ待っていても、同じ風は二度と吹くことはないよ」

優しく、そして残酷に彼が告げる。

「――分かってる」

返す声が震える。気を抜けば今にも泣いてしまいそうだった。
息を吸う音。小さく肩が震え、身を強張らせる。
続く言葉を聞きたくはない。けれどそれを止める勇気もなかった。

「だから、さ」

言葉が途切れた。迷うことのない彼の初めての反応に、そっと薄目を開けて彼を見る。
泣いている顔。その横顔に涙は見えない。けれど唇を噛み締め何かを耐えているその表情は、泣いているように見えた。
彼は何故、そんな顔をするのだろう。見ているだけで胸が苦しくなり、堪らず目を開けて体を起こした。
彼を見る。彼もまたこちらを真っすぐに見て、震える唇をゆっくりと開いた。
けれど声は出なかった。俯いて、続けられない言葉の代わりのようにポーチから何かをゆっくりと取り出した。

「あ……」

それは色あせ、すっかりくたびれてしまった紙飛行機だった。小さい頃に風を捕まえることを諦めた代わりに、飛ばし続けた紙飛行機の内の一つ。
懐かしさに目を細めた。彼との出会いも、ちょうど紙飛行機を飛ばしていた最中のことだったと思い出す。

「同じ風は吹かない。風は自由で気まぐれだから、追いかけてくれないとすぐに遠くに行ってしまうよ」

まるで願うような声だと思った。昔のように追いかけるのを望んでいるような、そんな顔をしていた。
不意に風が吹き抜けた。彼の手にした紙飛行機が、風に乗って空高く舞い上がる。
無意識に立ち上がっていた。紙飛行機を追って、一歩足を踏み出す。
手を伸ばす。届かない程、高く上がった紙飛行機。それでも体が動いてしまう。

「風が吹いた時が、旅立つのにはちょうどいい」

伸ばした手を取られ、彼を見た。泣きながら笑う彼が、もう片方の手を伸ばし、いつの間にか降りてきていた紙飛行機を取る。

「どこにも行けないなんて、そんなことはない。一歩だけ前に進んだら、後は風に身をまかせてしまえばそれでいいんだ」
「風に……身を、まかせる……」

気まぐれな風に背を押され、一歩足が前に出る。そのまま彼に手を引かれ、歩いていく。
どこに行くのかは分からない。そもそもこの先に何があるかを、自分は知らなかった。

「この先には、何があるの?」
「さあ?でも行ってみれば分かるよ」

確かにそうだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、彼に手を引かれ、風に背を押されてただ歩く。
ここから動けないと思っていた時には考えられない程、体が軽い。このまま風に身を委ねていれば、そのうち空すら飛べそうだ。
一際強い風が吹き、彼の手の中の紙飛行機が再び空を飛び始めた。まるで紙飛行機を追いかけているようで、思わず笑みが浮かぶ。

「最初に会った時、君は紙飛行機を飛ばしていたね。でもその前は虫取り網を持って風を追いかけていた」
「見てたの?」
「何をしているんだろうって、ずっと思ってた。でもまさか、虫のように風を捕まえようとしてたなんて思ってもなかったけど」

くすくすと彼は笑う。

「――ばか」

顔が熱い。
恥ずかしくて彼を睨みつける。けれどこちらを見た彼の目が、とても温かな色をしているのを見てそんな気持ちはすぐに萎んで消えて行ってしまった。

「風は捕まえるものじゃないよ。こうして受け入れるものだ」

風が背を押す。それに逆らわず、身を任せた。

「あれから何年も過ぎたけど、ようやく伝えられた」

嬉しそうな声に、彼がこうして戻って来た意味をようやく知った。
笑みが浮かぶ。ありがとうの言葉の代わりに、そっと繋いだ手を握った。




20260514 『風に身をまかせ』

5/15/2026, 6:41:09 PM