青年は、雨の中に佇んでいた。
傘を差さない雨の日は、想像以上に静かだった。
頭を、肩を、濡らしていく雨は、シャワーとは少し違った感触で不思議だ。
スラックスは肌に張り付いて、なんなら下着にも雨が浸透しているだろう。もはや境目もわからない。
足踏みをするとぐしゃぐしゃと鳴る水音に、幼児用のプープー音の鳴る靴を思い出して、青年が笑いそうになっていると、前から男が歩いてきた。
こんな大雨の中だ、他には誰もおらず、必然と目が合う。
「こんにちは」
「こんにちは」
晴の日だろうと雨の日だろうと挨拶は大切。同じ考えの持ち主のようで少し親近感が湧く。
「どうかされました?」
濡れ鼠になっているのに逃げも隠れもしない青年を不思議に思ったのだろう。男は尋ねる。
「あぁ、これは、子どもの頃やってみたかった事をやってるだけなんですよ」
「やってみたかったこと?」
「はい。やってみたかった事その16の『雨の中佇む』。本当はその3の『台風の中佇む』をやってみたいんですが、なかなかいい台風が来ず…とりあえず派生してその16を体験中です」
「なるほど…」
男は一つ、こくりと頷き、真顔で続ける。
「それは奇遇ですね。実は私も雨を浴びに来たんですよ」
「あっ、だからあなたも傘も差さずに雨の中歩いてらしたんですね」
そう、男も青年に負けず劣らずびしゃびゃになっていた。
安物そうには見えない黒いスーツも革靴も、見るも無惨。
「さっきまで風呂に浸かっていたんですよ」
「お風呂に?」
「はい、服のまま。やってはいけないと思い込んでいたことにチャレンジしようかと思い」
「まぁ、それは素敵ですね!」
「思いの外気持ちが良く、いつ風呂から上がろうか考えていたら、雨が降ってきたので。どうせなら全身ずぶ濡れになってやろうと」
男は水を含みすぎて萎れた前髪をかき上げる。
「本当に奇遇ですね!まさか同じお考えの方にこんなところで会えるなんて嬉しいです」
青年は前髪を伝ってきた雨が目に入りそうになり、びしゃびゃの手で拭う。
「あの…実は、本当はその7をやるために今日は出てきたんです。もしよかったらご一緒しませんか?」
びしゃびゃの手をそのまま組んで、青年はちらと男を見やる。
「子どもの頃やってみたかった事その7、ですか?」
「えぇ、その7は『夜の学校のプールに忍び込んで満喫する』です」
「…だからその大きな浮き輪を持っていたんですね」
実は、青年は雨に佇む傍ら、オーロラ色の下地にピンクの水玉というド派手でドでかい浮き輪を方肩に引っ掛けていた。ここにツッコミ役は存在しない。
「しかし、忍び込む、ですか…」
浮かれた浮き輪を見ても崩れなかった男の表情が、思案に変わる。
「あっ、忍び込む、と言っても、ちゃんと許可はいただいているんです。人様に迷惑をかけるのは本意でないので」
青年は両手を左右に振り、説明を続ける。
「ちょっと手助けをしたことがある学校さんにお願いをしたら、ちょうど昨日で水泳指導が終了したそうで。ちゃんと塩素も入れておくから、なんなら今日昼から使ってくれと言ってくださったんですが。
ぼくが入りたいのは夜の学校のプールだったので」
「それは――素晴らしいですね」
思案顔が晴れて真顔に戻る、いや、少しだけ微笑んでいるようだ。
「それなら、やってよい『やってはいけないこと』だ」
「でもやりたかったことは『忍び込む』なので忍び込む体で行きます。…もちろん鍵もお借りしているんですけどね」
「では、お言葉に甘えて、お供させてください」
「やった!こちらこそありがとうございます」
勢いよくお辞儀をして飛んだ水滴が、男のスーツに付いた金の天秤柄バッジにぶつかり、弾けた。
「私、着衣泳好きだったんですよ」
「実はぼく、着衣泳やったことがなくて」
「じゃあまずは実践ですね。私がやり方をお伝えしますよ」
「ありがとうございます!助かります」
吹っ切れた青年と、ぶち切れた男。
頭の大事な糸が切れた二人を見ていたのは、俯いて雨に佇む向日葵だけだった。
【雨に佇む】
8/27/2024, 3:54:23 PM