《ミッドナイト》
学校、病院、街並み……それらはどれも多くの人にはありふれて感じられるものだ。
だが『夜』という背景が付くだけで、その印象はまるで変わってしまう。
夜の学校はどこか恐ろしく、夜の病院はホラーな展開でも起こりそうである。夜の街並みは、どこか大人な雰囲気を感じさせるかも知れない。
本好きの市長が建てたと言われている、この大図書館も似たようなものとして挙げられるだろうか。
開館時間は八時から二十三時と、普通の図書館より長く開かれている理由は単純、多くの人に利用して欲しいからだそうだ。
閉館時間は、誰一人として館内にいない。
市立なだけあって、夜間のセキュリティは万全と言える。
二十三時から翌朝八時までの、司書が来るまでの時間を厳重に守っているのだ。
だが、そんな中を許可もなくカノンは入って行く。
セキュリティに止められることもなく、本棚の波を掻き分けたカノンはカウンターに向かう。
右から二番目のカウンター席。
何もない空間にカノンは声を掛けた。
「……司書さん、おすすめの本はどれですか?」
「——地下一階の00番の棚、その上の段の一番左にある本かな」
落ち着いた声が、カノンの耳朶を打つ。
最初からそこに居たかのように、着物姿の青年が悠然と足を組んで座っていた。
「司書さん、一緒に探して読んでくれますか?」
「もちろん。行こうか」
青年は立ち上がり、カノンの手を取って階段へと歩き出す。
そのまま特に何かを話すこともなく、目的の場所へと辿り着いた。
「さぁ、題名を読んでご覧」
カノンは促されるまま、不自然に仄かに光る本を引き抜き、題名を見る。
初めは何も書かれていない白い本だったが、カノンが手に取った傍から文字が現れていく。
「『言えない気持ち』」
「……さあ、貸してみて。読んであげよう。おいで、カノンちゃん」
いつの間にか現れていた椅子に座り、膝の上に座るよう彼はカノンに勧めた。
初対面で名を呼ばれたこと、距離の近さ、今更ながら自然と図書館に足を運んでいること。
考え出せば切りがない程、違和感だらけの夜。
カノンは思考を放棄して、彼の優しい手に導かれた。
「——これは、一人の少女の物語」
お兄ちゃんがいた。
お兄ちゃんは少し大変で、性格も他者に理解されにくい、そんな人だ。
だから、お母さんやお父さんが、お兄ちゃんに構ってばかりなのも仕方なかった。
けれど、自分自身で理解していた。
疲れちゃった。
頑張れない。
頑張りたいのに、できない。
どうすればいいのかもわからなくなっていく。
だけど、どんな言葉も当てはまらない。
その苦しみを初めて打ち明けたのは、友達でもなかった、オンライン上の誰かだった。
言葉がどれも優しくて、頑張ろうと思えた。
たとえその人が何か嘘を吐いていたとしても、それでもよかった。
それで、根本的には解決していなくても心の平穏へと近付いて行った。
なのに、たった一言そう言われただけで無理だった。
頑張れって言わないで。
お願い、そうじゃなくて、大丈夫って言って。
お母さん、お父さん。
そんなこと言わないで。
私にとっては『ちょっと』の努力が、すごく『たくさん』の努力なの。
そんな思いが溢れて、溢れて、零れて。
言わないつもりだったのに、絶対に家族や友達には言わない前提の気持ちだったのに。
そんな思いで支配されて、私は。
そうしていつしか、終わりを選ぶ。
それでも、忘れちゃいけないことがある。
それは、気持ちを打ち明けた私が、誰かに掛けてもらった言葉があること。
私なんか、は駄目だと言って貰えたこと。
大丈夫だよ。
僕はそんな君が好きだよ。
だから、何かあったら話してね。
きっと、絶対力になるから。
友愛で包んでくれた誰かを、忘れちゃいけない。
「——これはそんな、物語の幕引きだ」
本を読み終えて彼はカノンを見つめる。
カノンは、立ち上がり本を受け取った。
「司書さん、ありがとう。忘れちゃってたな、みなさんのこと。だから……」
カノンがたどたどしく続けようとした言葉を遮って、彼は。
「最期にリアルを見るくらい許されるだろうね。なんとかに口なしって言うからね、いいでしょ、まあ」
「……はい。いってきます、司書さん、ありがとうございました」
「いってらっしゃい」
カノンに手を振り返すと、微笑んで、カノンは去った。
大事そうに、一冊の本を抱えて。
青年は満足気に頷き、定位置のカウンターのある一階へと戻る。
それから書庫へと繋がる扉を開き、奥へと進む。古本の匂いが鼻を満たす。
彼は最奥へ辿り着くと、一番上の棚の隅の本を手に取った。
『鬼子の呪い』と書かれた本だ。
『鬼子』と呼ばれた少年には特別な力があった。人の望みを視ることができるのだ。
それ故に、望みを盗み見る少年のことを忌み嫌ったのだった。
皮膚をなぞるだけで裂く鋭い爪。およそ人間ではない、金色の瞳。尖った歯。
それらも少年を忌む対象とされた。
そんな物語だ。
彼は指の腹を爪でなぞり、溢れる血液を本に伝わせる。
次の瞬間、彼の姿はどこかへと消えた。
真夜中の司書は、利用者の声を聞いて初めてカウンターに現れる。
また、その利用者もセキュリティの反応しないモノだけだ。
——死者が為の、真夜中図書館。
それが、この図書館の夜の顔だ。
1/26/2024, 4:40:11 PM