カップル:蒼(あお)と沙良(さら)
ーー温泉旅館にてーー
これ以上なく、愛でたいという欲求ごと、抑える。
腕のなかの、柔らかな肢体。
全身優しくあたたかな、繊細なそれを。
全身で触れ、全身で感じ取りながら。
壊さぬように、抱きしめて。
抱きしめ続ける。
一瞬、目を閉じて、念じる。
純粋な気持ちだけで。
抱きしめられたなら。
「蒼…」
声とともに、そっと。
頬に触れる小さななにか。
はっとして瞳を開けると。
沙良が、細い指でそっと。
頬に触れていた。
「どうしたの…苦しい、の?」
自身が苦しそうな顔をしながら。
蒼の頬にそっと。手のひらを添え包み込む。
優しく、繊細に。
まるで繊細なものを包み込むかのように。
繊細なもので繊細に包まれ。
頬が、自分自身が、とても大切にされるべき宝物に、なったかのような気分。
瞳を閉じた。
心が、しずまっていく。落ち着いていく。あれほど、波打ち、自分では抑え込めなかったのに。
「大丈夫」
瞳を開けて、微笑みかける。
心配ないと。安心させたい。
沙良のおかげで、もう。
大丈夫だ。
いつも。
こんなに苦しいのも、苦しめるのも、
沙良のおかげで。
それを救ってくれるのも、
沙良のおかげ。
本当に自分は、沙良にくっついているかのように、沙良のものだ。
くっついていられるなら、せめて。ただくっつくのでなく。重みになるのでもなく。
優しく包み込めるように。
ふわりと、軽く。
あるかないかわからないくらいでいいのだ。
ただ、その一枚の、真綿で編んだ薄地で。
優しく包み込むように、その心を守れるように、くっついていたい。
心から、そう思う。
そっと。瞳を閉じて。
「ただ、沙良を好きで。それで、苦しくなった、だけ」
「そう、なんだ」
嬉しげに変化した沙良の声に、瞳を開ける。
私と同じだね、と。
嬉しそうに笑う、笑顔。
瞠目する蒼に。
「いつもの私も、そうだよ。
だから…」
今度は、安心させるように。
大人びた表情で、微笑む。
慈愛の、笑み。
蒼の全部を、慈しむような。
表情に。何より、その瞳。
全てを受け入れ、包み込む。
安心して、委ねていいよと。
安心して、愛されていいよと。
「だから、
苦しくなくなる方法も、知ってるよ」
蒼の胸に顔を埋め。
どこか。恥ずかしい秘密を話すように。
沙良の顔、表情、瞳、笑みが
視界から消えて。
ようやく、声を絞り出す。
「ほう、ほう?」
どんな…、ある、のだろうか。
沙良を想う限り。消えない。
消そうとも思わない。
これは、沙良を愛する気持ちの一部。沙良のくれた宝物で、自分自身。蒼を大きく形づくるもの。
それに。
この苦しみこそが、至高の幸福をも与えてくれる。
だから、いい、のだ。
ただ。
沙良は、自分の知らないことを知っている。それを知りたかった。
沙良の、一瞬の沈黙。
そして。
「いっぱい、いっぱい、好きって。思うの。
それでね。溢れ出して苦しくて耐えられなくなったら。
好きって、言うの。
口に出すか、
1番いいのは、相手に直接、伝えるの。
私は、それで楽になったよ。
何より、蒼が。
受け止めて、笑ってくれるから。
蒼が、楽にしてくれるの」
感じる。
伝えるのが恥ずかしくて。でも、勇気を出して話してくれている。
「私も」
顔を上げて、笑った。
「ちゃんと、受け止めて。笑うから。
蒼が、教えてくれたんだよ。
苦しいの、なおしかた。
…でもね、好きはいつも、ずっと。
続くから。なおせるのは、ちょっとの間だけ。
また、溢れて、すぐに苦しくなるけれど」
恥ずかしそうに、笑う。
しかたないよね、と。
完治の方法なんて、ないよと。
「だから。
蒼も。その、」
かぁと赤くなり…珍しく、視線を外し彷徨わせながら。
「好きって、言って、いいからね。わたし、に」
黙り込んだあと。
反応のない蒼に。
動揺していく。
何か、ちがうことを口にしてしまったかと。
「え、その…、私じゃ、なかった…?」
ううん、だって
そう言ったはず、と。うろたえて蒼の言葉を思い返す沙良。
抱きしめる。
強く。
息を呑む、音。
わずかに力を緩め。
それでも。先の柔らかな抱擁よりは、強い。
「沙良」
「、は、い」
ぎこちなく、それでも律儀に返事をしてくれる彼女。
自分の言葉を待ってくれる彼女に。
ー好き。
再度口にすると。
沙良の身体が、小さく震える。
溢れる想いを、何度も何度も。
…以前は、言えなかった。
はじめは、言う意志はなく。
次は、言うと困らせるため、自分で制し。
奇跡のように沙良が想いを受け入れてくれて、沙良の想いを返してくれて。
それでも伝えたら困らせて悩ませてしまう言葉だろうと、言えず。
今。
沙良から、言っていいよと、言ってもらえて。
幾度となく奇跡が重なり合って、
今がある。
溢れる想いを、唇にのせる。
5/3/2025, 4:38:48 AM