汀月透子

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「cloudy」

 今ひとつ晴れ渡ることのない、曇り空の月曜日。いつものように電車に揺られながら、私は胸の奥に沈殿した重いものを感じていた。
 それは名前のつけようのない感情で、悲しみでもなく怒りでもなく、ただもやもやとした塊のようなものだった。

 オフィスに着くと、隣の席の彼女がいつものように明るく挨拶をしてくる。私も笑顔で応えるけれど、その笑顔は作り物だということを自分が一番よく知っている。
 彼女は私より三歳年下で、入社も私より後なのに、なぜか周りからの信頼は厚い。企画会議では必ず発言を求められ、飲み会では自然と中心になる。
 私はいつも端っこで、適当に相槌を打っているだけだ。

「お疲れさま」

 部長が私のデスクの前を通りかかって声をかけてくれる。でも、その視線はすぐに彼女の方に向かう。
 今日の進捗について、彼女に確認を取っている。私も同じプロジェクトに関わっているのに。

 昼休み、同期の何人かがランチに誘ってくれる。断る理由もないので一緒に行くけれど、会話に入れずにいる自分がいる。

 皆、楽しそうに自分の趣味について語っている。私は黙って聞いているだけ。
 何か聞かれても、「へぇ、いいですね」としか言えない。特技も趣味も、人に語れるようなものは何一つない。

「あなたは何かやってるの?」と聞かれて、私は慌てる。
「あ、えーっと...最近は...読書を...」
嘘だった。家にある本といえば、何年も前に買ったまま積み上げられた自己啓発書だけ。

「私って、本当につまらない人間だ」
 帰り道、そんなことを考えながら歩いている。三十三歳、独身。
 特に目立った趣味もなく、特技もなく、人に自慢できることなど何もない。週末は一人でテレビを見て過ごすか、スーパーで見切り品を買うくらいが関のは山だ。
 同期の多くは結婚して子供もいるし、独身の人たちでも充実した趣味を持っている。私だけが取り残されている。

 でも、結婚していないことが問題なわけではない。問題は、私自身にあるのだと思う。
 人とのコミュニケーションが下手で、自分の意見を上手く伝えられない。会議でも、言いたいことはあるのに、タイミングを逃してしまう。そうこうしているうちに話題は次に移ってしまって、結局何も言えずに終わる。

 家に帰ってスマートフォンを開くと、同僚たちのSNSが目に入る。陶芸作品の写真、英会話レッスンでの集合写真、ヨガポーズを決める彼女たち。みんな生き生きとしていて、何かに打ち込んでいる。私のアカウントには、コンビニで買った夕食の写真くらいしか投稿していない。投稿する価値のあることなど、何もない。

本棚に並ぶ自己啓発書を見る。『30代から始める新しい自分』『趣味で人生は変わる』『一歩踏み出す勇気』。どれも最初の数ページで挫折している。
 やってみたいことがないわけではない。料理教室、写真、ダンス、語学……でも結局、申し込みのサイトを見るだけで終わってしまう。
 「どうせ続かない」「才能がない」「お金の無駄」という声が頭に響く。
 隣の席の彼女は、何をやっても器用にこなしてしまう。同期たちは、自然と新しいことにチャレンジしている。私だけが、何をやってもうまくいかない気がして、最初の一歩が踏み出せない。

 ソファに座って、天井を眺めつつ今日一日を振り返る。
 特に何か悪いことがあったわけではない。誰かに意地悪をされたわけでも、仕事で失敗したわけでもない。ただ、自分の中身のなさを痛感させられた一日だった。

 この感覚は最近特に強くなっている。職場での自分の立ち位置が曖昧なのも、結局は私に何の取り柄もないからなのかもしれない。資格もない、スキルも平凡、話も面白くない。
 同僚たちは親切だし、悪い人たちではない。でも、私だけが空っぽの人間のような気がしてならない。

 今日の昼休みの会話を思い出す。みんなが目を輝かせて自分の好きなことを語っていた姿が羨ましかった。私も何かに夢中になってみたい。人に「すごいね」と言われるような何かを身に付けたい。でも、何から始めればいいのかわからない。三十三歳から新しいことを始めるなんて、遅すぎるような気もする。
 では、このまま何も変わらずに年を取っていくのだろうか。四十歳になっても、五十歳になっても、「特に何もない人」のままなのだろうか。

 でも、明日も同じような一日が始まるとわかっていても、どこかで「今度こそ」という気持ちがくすぶっている。
 変わりたい。何かを始めたい。そう思う気持ちだけは、消えずに残っている。

 ぼんやりとスマートフォンを眺めていると、タイムラインに一枚の写真が流れてきた。知らない人の投稿で、朝の公園で撮られた写真だった。木漏れ日がベンチに落とす影の模様。ただそれだけの何でもない光景なのに、なぜか私はその写真に釘付けになってしまった。

 美しい、と思った。

 その瞬間、自分でも驚いた。いつから私は、何かを「美しい」と感じることを忘れてしまったのだろう。 
 毎日同じ道を歩いて、同じオフィスで過ごして、同じ電車に乗って帰る。その間、私は何を見てきたのだろう。何かに心を動かされたことが、最近あっただろうか。

 考えてみても、思い出せない。空も、花も、建物も、人も、すべてが背景として流れていくだけで、立ち止まって「きれいだな」と思ったことがない。
 美しさを感じる心が、いつの間にか錆びついてしまっていた。

 それなのに、今、見ず知らずの人が撮った何気ない写真に心を奪われている。これは何なのだろう。私の中にも、まだこんな感情が残っていたのか。

 隣の席の彼女のように器用にはなれないかもしれない。同期たちのようにセンスがあるわけでもないかもしれない。
 でも、美しいものを美しいと感じる心は、私にもあったのだ。

 窓の外では、街の明かりがきらめいている。この街のどこかに、私と同じような思いを抱えている人がいるかもしれない。
 取り柄がないと思い込んで、美しいものさえ見えなくなってしまった人が。

 もしかしたら私にも、まだできることがあるのかもしれない。
 難しいことじゃなくていい。一日に一つ、何か美しいものを見つけてみよう。花でも、雲でも、誰かの笑顔でも。そんな小さなことから始めてみよう。

 明日は少し違う一日にしてみよう。会議で一回は発言してみる。そして通勤路で、何か一つ、美しいと思えるものを探してみる。それが私にできる、一番無理のない変化かもしれない。

 この取り柄のない自分へのコンプレックスは、一日で消えるものじゃない。
 でも、美しさを感じる心を取り戻すことで、少しずつでも自分を変えていけるかもしれない。三十三歳の私にも、まだ感じることのできる何かがある。

 その写真をもう一度見る。
 私の心の曇り空を晴らす、木漏れ日とベンチ。本当に、美しかった。



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※cloudy=曇った様子からの、心の中のもやもやした思いにひっかけて。

9/22/2025, 3:47:58 PM