マサティ

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私が1番欲しいもの

『月とクジラ』

今は深夜か早朝か、午前4時前に家を出た。
ビルの谷間にポーンと花火が打ちあがった。
けれどこの花火ちっとも消えないなと思ったら、沈みかけのお月さまだった。
夕日に似た橙のグラデーションを宿していたので花火と見間違えたのだ。
私はじんじんとする瞼をこすりながら急いでいた。
浜に入道クジラが出たらしい。
海の友達が言っていた。
夜明け前の入道雲がザパーンと身を翻したかと思えば、クジラだったという話だ。
この入道クジラ、朝マヅメに姿を見せるのだが日が照り出すと消えてしまうらしい。どこに消えてしまうのかは誰にも分からない。
今日明日が最後だろうな、と海の友達は言っていた。
私はいてもたってもいられなくなって浜に向かったのだ。
家を出る前に同棲中の彼女と喧嘩をした。
そろりそろりと静かに家を出るつもりだったが、押入れから望遠鏡を探す物音で彼女を起こしてしまったのだ。
「どこに行くの?」
彼女は明らかに不機嫌だった。
深夜、あるいは早朝の外出について私は彼女に話していなかった。
けれど、それだけの話でもないらしい。
私が現在無職で求職活動中であること、彼女の実家への挨拶を渋っていること、部屋の片づけを疎かにしていることなどなどが積み重なって眉をひそめている。
私は向き合って、彼女をなだめてから家を出るべきだった。
けれど、クジラはそんな私を待ってはくれない。
私は何やかんやと中途半端な説明だけ済ませ、シューズのかかとを踏んだまま足早に家を出た。
もういい、と彼女の声が聞こえた。
私は取り返しがつかないことをしてしまったのではないか。
不安と焦りと期待を胸に、車のエンジンをかけた。
未だ知らぬ入道クジラの姿と彼女のことが交互に脳裏をよぎった。
沈みかけの満月から目を離せなかった。
既に月は半分以上沈み、夜の終わりを告げている。
サイドミラーに映る対角の地平線は既に白んでいる。
考えなければいけないことが幾つもあった。
けれど今考えることはただ一つ。
海へ海へ、クジラが去る前に。
バイパスに出る。
目的地の浜まで30分。
海の友達から、まだかまだかとラインが届く。
お腹の底が切ない気持ちできゅーっと鳴る。
入道クジラを見た者は、それから一年幸福に過ごすことが出来るのだという。
けれど、私はクジラを見ることで自分を幸せにしたいわけではなかった。
ただ、入道クジラをこの目で見たいだけだった。
一昨日まで入道クジラについて考えたことすらなかったのに。
彼女の冷たい視線を置き去りに、私は海に向かっている。
アクセルは止まらない。
浜に着くと、既に大勢の人がごったがえしていた。
車を停めるスペースはなく、駐車場をぐるぐると旋回するはめになった。
途方にくれていた時、浜に並ぶ椰子の木の上空に巨大な白い紡錘形の塊を見た。
正確な大きさは分からないが、東京タワーと同じくらいの大きさだろうか。
グォーンっという鐘の音に似た鳴き声が夏空に響いた。
入道雲が白波のごとく前後左右に飛び散った。
巨大な白い腹をそらせて、円盤の様なヒレを高々と掲げて旋回している。
そして再び、グォーンという声をあげて入道雲の中に飛び込んだ。
そしてゆっくりゆっくり、雲の合間をたゆたいクジラは静止した。
数分待ったがクジラはもう動かなかった。
よくみれば、それはクジラの形をした入道雲だった。
路上に一時停止した車内でしばらく呆然としていた。
わざわざ引っ張り出してきた望遠鏡は手に取ることすらせず、助手席に置きっぱなしだった。
人だかりが少しずつ帰路につき始めている。
やっと駐車スペースに停めて、目的もなく浜をうろついた。
海の友達を探したが既に帰宅したようだった。
子供が浮き輪を手に砂浜を走っている。
海の家がガレージを開けて、開店の準備をしている。
ありふれた夏のビーチだった。
まるですべてが幻だったかのように。

仮眠をとってから帰路についた。
今朝の彼女との会話が憂鬱に蘇った。
鍵をあけてただいまと言うも、返事は無かった。
溜息混じりに冷蔵庫を開けると、華奢な三日月がコロンと転がり落ちた。
この三日月あまり光らないなと思ってよく見ると、バナナだった。
バナナの皮を剥くと、白く冷え切った彼女の顔が出てきた。
彼女はバナナの皮に包まれて寝息を立てていた。
慎重に彼女を取り出し、抱き上げてベッドに運んだ。
数分して彼女が目を覚ました。
「帰ってたの?」
「ついさっき」
彼女は憑きものが落ちたように穏やかな顔をしていた。
「私ね、夢をみたの」
「どんな?」
「冷蔵庫の冷えたりんごとぶどうが、おいでおいでをしてきてね。一緒に眠ろう、冷えた果実になろうって。私は未熟なバナナになって彼らの隣で眠りについたの」
おかしいよね、と君は笑う。
そうだね、きっと夢なんだろうけど。素敵な夢だと思うよ。
その時、私は改めてクジラに想いを馳せた。
幻だって良いじゃないか。
私の、私たちの幸不幸がそれぞれの意志によるものだとしても、クジラが振りまくという幸福の一片を願わずにはいられなかった。

7/22/2024, 9:50:47 AM