薄墨

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心地よい夜の闇が、眼前に広がる。
少し目線を動かせば、チカチカとしたネオンが、目に入る。

俺はそのネオンの看板から、目ざとく空いてる建物を探し出し、屋上に肘を乗せる。

あっと思った時には遅すぎた。力を込めすぎたんだ。
ビルの、直角の一角が、ガラリと崩れ落ちる。

まただ…俺は人知れず肩を落とす。

1ヶ月前、街中に突如として現れた巨大な怪人たち。
これらが元人間だったと一般的に知られるのは、それから二週間が経った頃だった。

原因は、成長ホルモンを過剰分泌し、骨の成長板を強制的に開かせる、未知のウイルスの感染によるもの。
空気感染で、すれ違うだけで感染するが、そのウイルスが身体の中で活性化するのは10000分の1の確率で。
ウイルスが活性化した身体を持つ人間は、巨大化し、身長10mをゆうに越える怪人と成り果てる…。

一週間前のそんな報道を、なんたる不運だろうか、俺は小高い山に腰掛けて聞いていた。

文明を破壊しかねない恐ろしいこの流行病に対して、人々は慌てて対応した。
あっという間に怪人取扱法が制定された。
国民は皆、ウイルス所有検査を受け、陽性だったものは、一時的に隔離され、消毒処理を受ける。
怪人となった患者たちは、特別区画に収容されることになり、国の定めた巨大区間で、普通の人間とはスケールが何もかも違う、平凡な暮らしを送ることに定められた。

怪人は、他国との戦争時や、災害時の救出活動での活躍が期待されているため、世間体もよく、国の対応はとても丁重だ。
だから、ほとんどの怪人は自主的に特別区画に向かう。

だが、俺はまだ街中にいる。
俺にはやりたいことがあるからだ。

カレー。インドカレー。
俺はインドカレーが食べたい。

甘口のバターチキンカレーが食べたい。
チーズナンにカレーをたっぷりつけて、苦しいほどにこってりした満腹感を堪能したい。
そもそも俺は、不運にも、件のインドカレーを食べに行く途中にこうなってしまったのだ。こうなったら、意地でもインドカレーを食べなくては、死んでも死に切れない。

だから、俺は今日も深夜の街を彷徨いている。

深夜は良い。人が出歩いていないから、うっかり殺人に心をすり減らさずに済む。
あとは、こんな素晴らしい深夜帯に開いているインドカレー屋があれば完璧だ。

というわけで、俺は今日も街を彷徨く。
足の間に注意深く目を凝らしながら。

俺には、人間社会を追放される前にやりたいことがある。
それは、インドカレーを食べること。
腹にもたれるバターチキンカレー、サッパリさの対極を行くチーズナン……ああ!食べたい!

一人心地で走り出せば、つま先が傾ぐ。
どうやらなにかにつまづいたようだ。

俺は不審に思い、足を持ち上げる。
…自分の爪先を眺めた俺は、自分の不運を呪った。

俺の足の指の、薬指と中指の間に挟まりながら怒鳴る褐色の彼。
そして、小指の先には、塵粒くらいのカレー…

しかも、この香りはバターチキンカレー……

心地よい夜の闇が眼前に広がっている。
ネオンと闇の中の星が、ゆっくりと霞んでいく。
ああ、と俺は思う。
ここは今から、局所的に、雨になる。

瞼を瞑る。
涙の重たさがゆっくりとずり落ちていった。

6/10/2024, 2:00:52 PM