よあけ。

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お題:目が覚めるまでに

 カラカラ、からから、カラカラから。
 引き戸の開閉音が風鈴の役割を果たすようになってしばらくする。もう時期引き戸は枯れ葉の音に変わる頃となった。
 なぜここにいるのか、彼は自覚しないまま白いベッドの上で暮らしていた。消毒の匂い、机上一本の造花、レースカーテンに覆われた窓。この生活に十分満足していた。これといって不安もなかった。異質な安定がこの小さな部屋には存在しているから。そして甚く気に入っているものがあるから。枯れぬ花。数十枚の花弁が大きく広がった、淡いオレンジ色。花の名前も知らず、花言葉も知らない。ただ、形と色が好ましいと感じる。
 そよ風に揺れるカーテンの影を映し、また、カーテンを開ければ空の色を含み造花は命を宿す。生きていないからつまらないわけではない。その花自体が生きていなくとも、彼はそこに命を見出し、機微を楽しんでいた。何より、その花はただそこにあり続けてくれる。それが彼にとって共感であり、拠り所であり、心であった。己を知らぬ彼にとって、造花だけが心だった。
 カラカラ、カラからカら。コツ、コツ。
 硬い革靴が床を弾く音が響く。初めて聞いた来客の音。
 彼は白いシーツを眺めながらぼんやりとした不安を抱いた。己を知らぬ彼には、どんな人が会いに来たのか、なんの知らせか、なぜこの時期に初めて来客があるのか、見当がつかないから。
 コツコツコツ、こツ、こつ。
 戸惑ったような靴音にこれまたぼんやりと視線を上げる。茶色い靴、まっすぐ伸びた背筋、まだどこか幼さを残した顔の輪郭、見開かれた目。息を呑む音が聞こえた。見知らぬ青年が目の前で佇んでいる。
「よかっ、た……よかった、です、目が覚めたんですね。本当に、本当に良かった」
 詰めていた息を吐いて、青年は胸をなでおろした。
 声をかけてくれているのに、この青年が誰なのか分からない申し訳なさと居心地の悪さ。彼はおずおずと眉を下げて尋ねた。
「申し訳ない、忘れてしまって。名を尋ねても?」
「……わすれた?」
 ピタリ。青年は瞬きすらしない。ただ、瞳孔だけが左へ行き、右上へ行き、また下がって左。
 彼の言葉は青年を酷く動揺させる結果となってしまった。
 ──忘れたのですか。忘れたのですか、忘れたのですか!
 猛烈な怒りを左手に握りしめ半ば睨みつけるような視線に、彼もまた、困惑していた。そして奥歯を噛み締め覚悟した。その左手で殴られることを。しかしその拳はゆるゆると解けていき、ストン、と指は垂れた。
 青年は大量に溜まった涙を拭うこともせず、取り戻した瞬きでぼたぼたと床へ落とし。
「忘れたのですか、せんせい」
 震え掠れた声で、先生、ともう一度。
 分からなかった。
 ふわり、ふわり、カーテンが膨らんでいる。
「……すみません、取り乱してしまって。年甲斐もなく八つ当たりだなんて、まだまだ子どもですよね」
 しょうかしきれない。隠しきれずありありとそう示しているにも関わらず、それでもなんとか微笑む青年はとても理性的に見える。どうすることもできない彼にとってとても有り難い人物だった。なぜなら彼は何も分からないから。
「花瓶、借りますね」
 青年は花を持っていた。
 枯れぬ花。数十枚の花弁が大きく広がった、淡いオレンジ色。
「あなたが好きだと言っていた花ですよ。色、は……あなたに似合うと思って、僕が選んだんです」
 花を見ながら柔らかく微笑む青年。
 好きだと言っていた花。似合う色。造花。取り替え。水。ぞうか。違う。これは、生花だ。
「キミが」
「はい、先生」
 ぼたぼた、カラカラ、からから、カラカラから、コツコツコツ、こツ、こつ、ぼた。ぼた。ぶちり。キラ、きら、こつ。
 いつからここにいるのか。もう随分長い間いたような気もするし、たった数日のような気もする。
 彼は揺れるシーソーの恐怖を思い出していた。跳ね上がり、宙に浮き、落下する。ぞわぞわ、ストン。何かが抜け落ちていく感覚。空洞。
「はい、先生」
 青年は花を持っていた。寂しそうに、哀しそうに、懐かしむように、慈しむように。
「せんせい」
 ぼた、ぼた、入り交じった感情で微笑んで「せんせい」と、空洞に水を注ぐように。
 青年にとって大切なものを己は忘れているのだと自覚した。不安と期待を中途半端にぶら下げ惑わしているのが己だと自覚した。応えたいと思った。
 彼は知った。待っていた。造花だけが心だった。
 青年は花を持っている。

■■

水を、入れ替えなければならない。ここのところ、ずっと、行っていないから。あなたが慈しむ、花を、持っていかなければならないと、思っているから。あなたの心を、育てたいから。あなたはこれを、造花だと思っていること、人伝てに聞きました。その造花は、ちゃんと生きていて、あなたが愛した、ダリアです。先生、せんせい、あなたもちゃんと、生きて、いて。けれど僕は、未だ、信じられていないのです。あなたの目に映ってしまう、僕が、どうにかなってしまいそうで、怖くてしかた、ありません。だから、あなたが眠るその頃に、花を生けて、いるのです。あなたの目が、覚めるまでに、僕は、あなたのいる場所へ、赴いて、花を、あなたが愛した花を。せんせい、僕は、怖くて、嬉しくて、怒り狂いそうで、幸せで、心がいっぱいで、あなたになんと言えば良いのか、見つけられずにいるのです。わがままな僕を、あなたは、きっと、受け入れることも、知っているのに。すみません、先生、泣き止み、そうに、ありません。今日、あなたの目が、覚めるまでに、間に合いそうに、ありません。

■■

花を目に映し、息を吹き返すあなたを見て、ベッドに手を付き、身を乗り出そうとするあなたを見て、僕は今日、間に合わなくてよかったと、何度思ったことか。

■■

 それはそれは慈愛に満ちた表情で、せんせい、と呼び掛ける。
「愛情のハグも、親愛のキスも、いらないんです。僕は手を握れるだけで」
 彼の両手をすくい上げ、手のひらから指先までするすると滑らせ、なぞる。
「いいえ、僕達の関係は、こうして向かい合って、指先に触れるだけで、十分なんです」
 そっと、そっと呟いた。囁く声は願いか、祈りか。
 この青年を抱きしめてやらねば、とは、不思議と思わなかった。指先だけで十分だと、この青年の慈しみだけで十分だと、いやというほど伝わってくるから。それに応えたいと思う。
 彼はそっと指を曲げた。

8/3/2023, 11:16:58 PM