母は私が物心つく前に亡くなった。
父は私が小学生になる前にいなくなった。
祖父母はよく分からない。
そうして私は鬼がいる地獄で暮らすことになった。
鬼たちは、私の靴を食べてしまったり、大きな手で襲いかかってきたりした。
痛くて怖くて、布団にくるまって逃げようとしたけれど、逃げた先も結局地獄で。
つまり、この世界はどこまでも地獄だった。
ある日、小さな地図を手に入れた。
それには、この世界からの逃げ道が書かれていた。
私は初めて希望を知った。
それを胸に裸足で外に出た。
地図を見ながら、一生懸命脚を動かした。
やっとの事でついたそこは、絶景だった。
私が生きた地獄が小さく見える。
あんなちっぽけな世界で生きていたのだと思い知らされた。
「ちっちゃいでしょ」
あの地獄。
いつの間にか、隣にいた天使のように透明な少女は、小さな口から言葉を紡いだ。
私は、前だけを見ていたけれど、なぜか少女の様子がなんとなく分かった。
「うん、小さい」
呆れるくらいに。
こんな小さな世界だけ見て、私は全てに絶望していたのか。
でも、こんな小さな世界だけれど、私のすべてだったから、
「でも、辛い」
少女の方を振り向く。
私の心の声を代弁した手足が細い少女は、小さな地獄を見つめていた。
「この広い世界から逃げ出したくなるほどに」
少女は、やっとこちらを見た。
彼女の顔には表情がなかった。
可愛らしい少女には似合わない、頬にある大きな傷が目についた。
「でもだめ」
ふわりと笑った少女は、今まで見た何よりも綺麗だった。
いや、今まで見た、1番綺麗だったものと同じくらい綺麗だった。
覚えていない、覚えていないけど、私はこの笑顔を見たことがある。
両親のいない私は、児童養護施設に入れられた。
その施設の先生も子どもも、同じ人間とは思えない酷いやつらだった。
子どもたちは、私の靴を隠して、先生たちは、私を叩いた。
痛くて怖くて、布団にくるまって夢に逃げたこともあったけれど、夢に見るのは両親が死ぬ瞬間。
見たことなんてないくせに。
この世界は、地獄だった。
そんな地獄にその子は現れた。
私の靴を取り返して、いじめっ子達を追いかけ回した。
私を叩いた先生に、思いっきりビンタを食らわした。
彼女は私の天使だった。
そして、当たり前に、いじめる標的はその子になった。
頬にある大きな傷は、手足が細いのは、透明になりそうなぐらい白い肌は、
すべて、私を守ったから。
なんで、忘れていたんだろう。
目から涙が溢れ出た。
喉が張り付いて、声なんかひとつも出ないのに、涙ばかりが出続けた。
彼女は、私の後ろを指さした。
「お迎えがきたよ」
今度、お手紙くらいはちょうだいね。
後ろを振り向くと、微かに見覚えのある男女が私の元に駆け寄り、抱きしめてきた。
私の名前を呼んで、泣きながら必死に謝ってきた。
祖父母だ。
「ああ、やっと見つかった」
ずっと探していた。
本当に、心の底から安堵しているように、私を抱きしめるその2人は、誰からみても私を愛していた。
私は2人を抱きしめ返しながら、もう一度振り返る。
そこにあるのは、揃えられた二足の靴だけだった。
きっと彼女は天使だから、天国に帰ってしまったのだ。
お手紙、書かないとな。
天国ってどこにあるか分からないし、何個あるかも分からない。
だから、空にさえいれば届くように。
彼女のもとに私の声が届くように。
拝啓、遠くの空へ
もう少しだけ待っててね。
『遠くの空へ』
4/13/2024, 1:27:46 AM