海月は泣いた。

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逆さま


真っ逆さまに落ちるような感覚だった。それは雷のように衝撃的で、一目見た瞬間僕の心をギュウっと掴んで離さなかった。
僕は、そう。いわば恋に落ちてしまったのだ。

濡れ羽色の黒髪は彼女の歩幅に合わせて軽やかに揺れる。丸こい頬は内側から滲みでた桜色をしていて、ぽてりと熟れた唇は幼い顔立ちから色気をほんのり香らす。すらりとした不安定そうな細い体躯と悠々たる足取りとの矛盾さにまた妙に惹かれてしまう。彼女の歩いた道に花々でも咲いてしまいそうだと思った。
第一印象は七秒で決まるというが、本当にそうだ。僕は七秒で恋に落ちてしまった。いや、七秒よりもっと短いかもしれない。
彼女はホームで電車を待っている列に合流して同じ列車を待っている。同じ方向だ。どこまで乗るのかな。どこから来たのだろうか。聞きたいこと知りたいことが山ほど浮かんだ。聞けないくせに…。
ああ、心臓が今までになくうるさい。この心臓をどうにかしないといけない。心臓が飛び出そうとはこのことだ。まもなく電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。電車が勢いよく僕らの前を通った。その風が彼女の髪を吹かせて……あ、おでこ。前髪で隠れていた肌荒れのはの字も知らないみたいな白く綺麗な丸い額が顕になってドキリとした。うわ、うわうわ。なんだか見てはいけないものを見てしまったみたいな気持ちになってきた。前髪をなおす仕草でさえ様になる。ぼうっと見蕩れていると彼女が電車に乗り込む姿を見てハッと電車が来たことに気づいた。彼女が動くのを見なかったら電車が着いたことに気が付かなかった。危ない。彼女を追っていたらいつ車に轢かれておかしくない、と本気で思ってしまった。

電車に乗っている間も彼女から目が離せなかった。通報されてしまいそうな勢いだ。でも周りの人からの痛い視線も気にならないほど彼女は綺麗だったから仕方ないのだ。これだと彼女のせいにしてしまってるみたいだが、そんなつもりは毛頭ない。最大限褒めているつもりだ。彼女の黒髪が大きく風に靡いた。あ、降りるのか。その凛とした背中を為す術なく見ていた。さっきまで何にも考えず彼女を見つめていたけど、彼女の姿が見えなくなった途端にどうしようもない不安が襲ってきた。次会えるのはいつだろうか。もしかしてもう会えないかもしれない。ああ、自分はなんて情けないんだろう。何にもしないでただただ見つめてただけとか考え無しにも程がある。自分の非力さに頭を抱えた。彼女の居なくなった電車はいつも通りの味気ない風景で、一気にモノクロと化してしまった。僕はそのまま心をどん底に沈めてどうやって家まで帰ったかも分からないほどだった。


12/6/2023, 5:53:21 PM