君と出逢って、それから
「おや、お久しぶりですね」
柔らかな日が射す部屋の奥で、その人は穏やかな微笑を浮かべていた。
愛想よく招き入れられた部屋は相変わらず綺麗に整えられていて、風に揺れるカーテンや柔らかく光を受け止めるグリーンの布張りソファが、薄暗い廊下を通ってきた目に沁みた。
「それで、今日はどういったお話ですか」
部屋の主は小さなジョウロでサルビアの鉢植えに水を遣りながらこちらを見やった。
「どうもこうも、言いづらい話ではあるんだけどね。……君にはそろそろ出ていって貰いたいんだよ」
「あら大家さん、またそんなこと言って。前回だってそうやって言って結局置いて下さったじゃない」
ころころと少女のように笑いながら彼女は私の前のソファに腰掛けた。そんなことよりこれをお上がんなさい、と差し出されたパウンドケーキを押しやって私は汗でヌルつく拳をそっと握り直した。
「それでも君は家賃を払わないし、部屋だって一番大きいのを使っているでしょう。正直なところ入居希望者が沢山居るんだ。さっき面談をやった人なんかは明日にでも入りたいと言っていてね……」
「まさか、それを承諾なすったの?」
「ああ、丁度いい申し出だと思ってね。私もいい加減君から離れなければいけないだろうから」
「そうね……それもそうだわ」
そう言ってから、彼女は窓の外を眺めてしばらく黙った。その横顔は悲しそうでもあり、嬉しそうでもありまるで見知らぬな女のようだった。私はただ、光に照らされた彼女の長い睫毛や滑らかな頬のラインを見るともなく眺めていた。それから彼女がふいとこちらを向いた。
「お話はもう良くて?それじゃああなた、もうお部屋に帰りなさいな。退去の件は明日の朝までにきちんと考えておきますから心配なさらないでね」
それじゃあ、お休みなさいましねと挨拶もそこそこに私は部屋を追い出されてしまった。
こうなったら彼女が聞いてくれないことは身に染みて知っているので、私は大人しく部屋へ帰って眠りについた。
そして翌朝私が訪ねたとき、彼女はもう居なかった。昨日パウンドケーキが乗っていたテーブルに、銀色の部屋の鍵とサルビアの鉢植えだけを置いて、彼女は行ってしまった。
私はすっかり温もりを失った部屋をぐるぐる歩き回ってから、そっとサルビアの鉢植えを持ち上げて胸に抱え込んだ。それから部屋を出て、カチリと鍵を閉めた。
お題 「君と出逢って」
5/5/2024, 6:57:55 PM