〈君と出逢って、〉
孫の大空が、また口をへの字に曲げている。
テーブルの端に追いやられたのはほうれん草の胡麻和えだった。五歳というのは、好き嫌いの主張が板についてくる年頃らしい。
「──大空(そら)。ちゃんと食べなさい」
長男の央が箸を止めて言う。隣に座った嫁のまどかも困ったように笑っている。
「パパだってしいたけ嫌いじゃん」
大空がすかさず言った。
央が「それはまあ……」と言葉に詰まる。まどかがくすりと笑いを堪えた。
「おじいちゃんだって、なんでも食べるでしょ」
妻の悦子が孫に向かって言った。
「好き嫌いしないから、ずっと元気なのよ」
私はグラスに手を伸ばしながら、曖昧に頷いた。
──いや、そうでもなかったんだけどな。
心の中だけで呟く。口には出さない。六十三年生きてきて、人に言わずに済ませることの多さを、私はそれなりに心得ている。
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セロリが駄目だった。あの青くさい匂いが、どうにも受けつけなかった。
思い出すのは、四十年近く前のことだ。まだ悦子と出逢う前に付き合っていた女性のことを、私はたまに思い出す。
名前は記さないでおく。ただ、料理の上手な人だった。
外食したとき、サラダに入っていたセロリをよけたのを見られた。
「おいしいのに。もらっていい?」
彼女は躊躇なく、私の皿からセロリを取って食べていた。
ある夜、彼女の部屋でミートソースを御馳走になった。濃くて旨いソースで、私は黙って二皿平らげた。
食べ終わってから、彼女がふふっと笑った。
「セロリ、入ってたよ」
私が固まると、彼女は「多分、匂いがダメなのよ」と言った。
「炒めちゃえば平気なのよ。
細かく刻んで、最初によく炒めてから入れるの」
それから彼女は、何かと工夫をしてくれた。
ミネストローネに入れるときは野菜の甘みが出るまで煮込んだ。ビーフシチューには香味野菜として溶け込ませた。
セロリを薄く切って明太子とマヨネーズで和えたものを食べたとき、私は初めてセロリの風味をおいしいと感じることができたのだ。
そうして、私はいつの間にかセロリを(少なくとも食卓の上では)食べられるようになっていた。
「……君と出逢って好き嫌いを克服できるとは思わなかった」
彼女は笑う。
「いろんなこと、こういう風に克服できるといいのにね」
私にはその言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
──結婚には至らなかった。
どちらが悪いというわけでもなく、ただ一緒には歩けないという結論を出した。
別れの後、私はようやくあの言葉を咀嚼した。
彼女は今もどこかで、誰かのために丁寧なミートソースを作っているだろうか。それとも、もう料理などしない暮らしをしているだろうか。
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大空が渋々、ほうれん草を口に運んでいる。悦子がよしよしと頷いている。
「子どもって、食べられないものがあるの当然よね」と悦子が言った。
「央だってひどかったんだから。ピーマン、トマト、きのこ全般」
「しいたけはまだ駄目だけどな」
央が苦笑いした。
「大空に言えないね、それじゃ」とまどかが笑った。
「工夫したのよ、こっちは」悦子は少し得意そうに言った。
「セロリもね、匂いで嫌いにならないようにってよく煮込んで、ビーフシチューに入れたりとかね」
「お義母さんオリジナルなんですか?」
まどかが興味深く訊いている。
悦子は少し間を置いた。
「おじいちゃんが好きなのよ。
どこで覚えたのかは知らないけど」
私はグラスを持ったまま、動けなかった。
一秒か、二秒か。
悦子はもう大空の方を向いて、「ほら、もう少し」と笑いかけていた。
食卓は賑やかなままだった。何事もなかったように。
「おじいちゃんと出逢って、私もいろんな料理の仕方を覚えたわ」
悦子が続けた。誰にともなく、ただ明るく言った。
私はグラスをそっとテーブルに戻した。何か言おうとして、やめた。言葉にしてしまうと、この柔らかな空気が変わる気がした。
大空がまたほうれん草を端に寄せる。央がすかさず「こら」と言った。
私はそれを眺めながら、静かに箸を持ち直した。
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〈耳を済ますと〉も更新しました。
よろしければ読んでね(´・ω・`)
5/6/2026, 5:05:30 AM