『ずっとこのまま』
エピクロスは言った。
『死は存在せず。なぜなら、我らが存在する限り死の存在はなく、死の存在があるとき、我らが存在しないからである。』
なんだか理屈としては凄く強いし、勇気を貰える言葉だ。
しかしどうしても拭えない恐怖がある。
怖いのは死の瞬間ではないのだ。
自分が抜け落ちたあとも、時間と世界が無関心に続いていくのが怖い。
私が生きている現在の後ろには先人達が辿ってきた果てしない道がある。それなのに今立っている位置が延長線のどの地点なのか分からない。後半なのか、まだ始まったばかりなのか。
人の生には起伏があるが、時間には起伏がないから怖い。物語なら章立てがある。
でも現実の時間にはそんなもの表示されないし、自分が死んだ後も数字は重ねられていくだけだ。
だがこの恐怖は手放したい感覚だろうか。消した方がもちろん楽だ。いくら考えたところで答えなど出ない。
しかし、この感覚を捨てないことは恐怖への一種の反抗でもあるのだ。この恐れは、死が怖いというより、時間の中で自分が一点にすぎないことを知ってしまった意識の痛みに近い。
そしてその痛みは、命が有限で、今が二度と繰り返されず、自分の経験が代替不可能だと分かっているからこそ生まれる。
だからそれを捨てたら、命が泡みたいに感じられる。思考を放棄した人生など呆気なさすぎる。
時間に起伏はない。
でも人がそこに意味を刻もうとするから、摩擦が生まれる。その摩擦こそが、思考であり、反抗であり、生きている証なのだ。
ただ勘違いしないで欲しいのは、この感覚は呪いではないということだ。決して囚われ続ける必要はない。多くの人は、人生のある瞬間にだけこの感覚に触れ、また日常に戻っていく。私もきっとそうなる。今この文章を読み、共に考えてくれたあなたもだ。
でも一度ちゃんと考えた人は、完全には忘れない。
それは鈍さではなく、深さとして残る。もし今後、この恐れが強くなりすぎたら、「消す」か「飲み込む」かの二択にしなくていい。
考える日と、考えない日を分けるだけでもいい。
それは逃げではなく、呼吸だ。
1/12/2026, 3:58:28 PM