突然降ってきた雨を窓越しに見つめて、小さくため息をついた。このカフェからマンションまでは走っても10分はかかる。それにやっとのことで完成させたこの資料を濡らすわけにはいかない。
今日は朝から電車は遅れるし、気がついたらブラウスにケチャップは飛ばされているし、サトウさんには嫌味を言われるし…とにかくついてない。
履いていたヒールを右手に持って思い切りサトウさんの後頭部目がけて振り下ろすところを想像したのがいけなかったのか。
雨に罪なんてないの、ワルいのはいつもわたし。
ワルいついでにダイエットも中断することにして、チョコレートケーキとデカフェのアイスコーヒーを注文した。これってゼロカロリーコーラみたいじゃない?カラダにいいのか悪いのか分からないのよ、実際。
不毛な自問自答で暇を潰していると、店員さんがこちらへやって来た。
「申し訳ございません。チョコレートケーキなんですけど本日分が今しがた終ってしまいまして…」
(ほら来た!)私は心の中で叫んだ。
「他のケーキはご注文いただけますがいかが致しますか?」申し訳なさそうにしている店員さんににっこり笑って「他には何があるんですか?」と涼しい顔をして聞いた。
「ただいま秋のリンゴフェア中でございまして、発酵バターのアップルパイと焼きリンゴモンブラン、アップルシナモンシフォンケーキとなっております」。
(…私はりんごが嫌いなのよ!)心の声が顔に出そうになるのを必死におさえて「いや、やっぱり…結構です」とひらひらと手を振りながら言った。店員さんはきまりが悪そうに「かしこまりました。申し訳ございません」と言い、そそくさと退散した。
いいのよ、ここまでくるとむしろ気持ちがいいぐらいだわ。
窓の外はあいかわらず雨が降っているが、もうどうでもよい気分になってきた。必死でつくったプレゼンの資料もケチャップのついたブラウスもヒールで殴り損ねたサトウさんのことも。
しばらく窓の外を見ながらデカフェのアイスコーヒーをすすっていると「お待たせしました」と後ろのほうから声がした。
「コーヒーとチョコレートケーキでございます。ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」私は思わず後ろを振り向いて、最後の一つの私が食べるはずだったケーキを注文した客のほうを睨みつけた。
そこにはぽかんとした顔をしたサトウさんが座っていた。
「あ…ぃあぁお疲れさまです?びっくりしたな。カワイさんだったのか。どうしたんですか、そんなに怖い顔をして」
私はその場でどんな顔をしたらいいのか分からず、逃げ出したくなったが、そうするには遅すぎた。「サトウさん、チョコレートケーキ食べるんですね」私はテンパると本当のことしか言えなくなる。つまり、機転がきかない性格なのは自分でも分かっているのだけれど、どうしようもない。
「カワイさん、これ食べたいんですか?」
「私、りんごが苦手なんです。それしか食べられるケーキがないんですけど、それが最後の一つだったんです」そう言いながら、まるで子供だなと自分で思った。
「じゃあこれ、カワイさんにあげます。僕はりんご、好きだから」
断ろうと思ったが、サトウさんはさっさと店員さんを呼んでアップルパイを注文してしまった。
「すみません、なんか無理言ってしまいまして…」
「それは、あんな顔で睨まれたら…ねぇ」サトウさんは明らかに笑いをこらえている。
私は自分を呪いたくなったが、嫌味を言われた事を忘れたわけではない。
「昼間のアレ、ちょっと言いすぎました」。
サトウさんは窓の外を見ながらそう言った。窓に映った顔はいつになく真面目だった。
「いいですよ。チョコレートケーキもらったんで」。もちろんチョコレートケーキをもらったからではなく、サトウさんがちゃんと真面目な顔をしたからだった。
「雨、やみますかね」
「困りますね、やんでくれないと」
「そうですよね、私傘持ってきてないんですよ」
「僕、傘持ってるので一緒に行きますか?」
「…じゃあ、お願いします」。
始まりはいつも…
10/21/2024, 10:18:59 AM