鏡に映る私に 恐る恐るキスをした。
特に意味はない。
ただただ愛情が、唇に欲しかった。
自分を愛せるのは私だけだと、詩人は唄う。
ヒンヤリとした鏡面は、物淋しさだけを跳ね返した。
他人(ひと)は鏡だと、誰かが言った。
そんなのは真っ赤な嘘である。
「固い友情」も「淡い恋」も、報われたことはない。
「よぅ、そこの辛気臭い顔した嬢ちゃん。
鏡見てみな、ひでぇ顔だぜ」
薄汚れた安っぽい手鏡を押し付けてきた見知らぬ老父 に、間に合ってます、とだけ冷ややかに返答した。
「なんでぇ、ずいぶん冷たい子だね。
せっかく綺麗な顔立ちなのに、勿体ねぇ」
その歳になれば、若い子なんてどれも一緒くたに可愛く見えるものでしょ、と内心 呆れて毒を吐く。
「知ってるか? 鏡は先に笑わないんだぞ」
「……は?」
何を当たり前のことを、と思わず怪訝な顔で老父を見れば、「やぁっとこっち見た」と欠けた薄黄色の前歯をニカッと覗かせていた。
お世辞にも綺麗な笑顔とは言えないのに、深く刻み込まれた笑いジワには、晴れやかなシアワセが映っている。
なんとなく居心地が悪くなって、私は初めに確認せねばならないことをようやく問いただした。
「ところで貴方、誰なんですか」
そう尋ねると、老父は突然ビクビクとしながら遠慮がちに口を開いた。
「……君の未来の姿、って言ったら怒る?」
「当たり前でしょうふざけないでください」
何を言い出すのかと思えば、このじじいは。
語気を強めて、怒りを露わにする。
「まぁ『私』なら、こんな話を聞いても信じないだろうけどなぁ──年老いたオレから言わせれば、オンナもオトコも、カコもミライも、境界線なんてものは曖昧なもんよ」
「……大きなお世話です」
同性の友人に、恋をした。
私のことを好きだと毎日言ってくれていたものだから、思い上がって告白して玉砕、そして疎遠になった。
物心ついた時から、拭えぬ違和感。
何が私を、私たらしめる?
「そろそろ帰ろうかね……それじゃ、達者でな」
老父はそれだけ言い残して、振り返らず去って行った。
「あっ……忘れ物」
ベンチに置き忘れられた、あの汚らしい手鏡。
思わず手に取ると、妙な既視感を覚えた。
それは人気(ひとけ)のない昼下がりの公園で、独り虚しくキスを落とした、手持ちの鏡。
──愛しいあの子がくれた、あの鏡。
2024/08/18【鏡】
8/18/2024, 3:07:27 PM