『忘れられない、いつまでも』
「人生で1番幸せだったこと??」
ただいまー!!と言う元気な跳ねた声と玄関の扉が勢いよく開く音は同時だった。オーブンへ型抜きも終わり均等に並べた生地を入れダイヤルを回せば軽く手を拭いて洗面所へと駆けて行く足音を追い覗けば台に乗り手を洗う小さな背中が見える。
「おかえり、もうすぐクッキーできるよ。今日はどうだった?」
「あ、ママ!えっとね!今日は鬼ごっこしてきた!!僕3回も鬼になったけどすぐに捕まえて逃げる方になったんだ!」
「ふふ、足が早いものね?」
「うん!あとゆうくんがなかなか誰も捕まえられないからわざと捕まってあげた!」
「あら、そんなこともできるようになったのね?ふふ、でもゆうくん嫌がってなかった?」
「どうして?…あ、僕わざとってわからないように捕まってあげたんだよ」
きょとりとしながら手を拭けば台を戻しつつも途中で私の言葉の意図に気づいて息子はドヤ顔をしている。いつの間にかさりげなく人を気遣える子になっているようだ。
「やるじゃない。そうか、しゅんともお兄ちゃんになってきたのね?」
「えへへ。…あ、そう言えばさ?ママって忘れられないことってある??ユキちゃんがこの間家族旅行でパリに行ったんだって言うんだけど、なんか…なんだっけ?何かが綺麗で忘れられないって言ってて…そういうの」
私の手を取りぎゅっと繋ぎながら丸い目をぱちぱちしながら一生懸命話す息子に思わず笑みがこぼれる
「忘れられないこと。ねぇ?ふふ、あるわよ」
「何?!」
「あなたに出会ってからの毎日よ」
「……え?」
「ふふ、毎日毎日全部が忘れられない。しゅんとに会ってから…全部がキラキラしてて幸せ」
「えー…もっとなんかないの?嬉しかったこととか?」
「しゅんとは?」
「えー??あ、ママのクッキー初めて食べた日!!」
「ふふ、本当に好きね」
食いしん坊の息子は屈託なく笑う。その笑顔が滲んでしまうのを堪えながらあえて明るい声でテーブルへと促す
「さぁ、もうすぐ焼き上がるわ。それまでミルクでも飲んで。あと、これも」
テーブルにミルクと共に薬を持っていけばうわ…と表情は曇る。心が痛むがどうしようもないのだ。飲まなければ命の期限はさらに短いのだから。
「ほら。頑張って飲めたらクッキーいつもより3枚多めにあげる」
「ほんと?!」
少しの逡巡のあと意を決して一息に飲む息子を抱きしめればちょうど焼きあがったクッキーを皿に並べ持っていく
「お待たせ、どうぞ」
「やったー!!!」
チンっと音がしてハッとした。オーブンを開ければ今日もクッキーは完璧な焼き色だ。けれど部屋の中はとても静かなまま。クッキーを半分皿に並べればしゅんとの写真の隣に置く。見えないけれど…食べてくれていることを願って
「…ん。今日も完璧ね」
あの日あの子が聞いた忘れられないこと。を今だに思い出す。君がそれなんだと答えた私の言葉をあの子は理解できていただろうか。その時風と共にテーブルに花びらが一枚入り込み落ちた。
「しゅんと?」
なんとなく…気づけば名前を呼んでいた。ハッとする、まさか。けれど何気なく見たあの子の写真の横のクッキーが一枚分なくなっていた。気づけば涙が止まらなかった。机に突っ伏した時、確かに背中が暖かくて…
「ごめんね、ごめんね。…心配しないで、ママは大丈夫だから」
これでは行けないじゃないと自分の弱さを恨めしく思えば
「僕も、ママとパパにあえてからの毎日が忘れられない。あの日言えなくてごめんね。また会えるから、泣かないで」
耳元であの子の声がして驚きに顔をあげたがそこには姿も気配ももうなかった。それから何度も季節は巡り、今お腹に赤ん坊がいる。…まさかとお腹をさすりながら笑えば風が吹いた。…あの日と同じ花びらだった。
「おかえりなさい」
声をかければ赤ん坊が腹を蹴った。
5/9/2026, 4:42:12 PM