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ずっと好きだった。
ずっと言えなかった。

でも、今日こそ。

そう思っていつもの居酒屋に呼び出した彼は、乾杯する前に言った。

「おれ、やっと彼女できたんだ」

少し照れながら笑う彼に、私はもう何も言えなくなった。

「……おめでとう」

そう言うのが、精一杯。
乾杯して、一気にお酒を飲み干した。

「おいおい、そんなに飛ばして大丈夫か?」
「平気だよ。おめでたいし、飲まなきゃね」

私はちゃんと笑えているのだろうか。
心配になり、空になったグラスに視線を落とす。騒がしい店の中、カランと鳴る氷の音だけが、やけに大きく耳に響いた。


店を出て、夜風に吹かれながら家まで歩く。
足元だけ見て、彼の笑顔を思い出さないようにして。

部屋に着いても、電気はつけなかった。
靴を脱ぎ、鞄を置いて、まっすぐ鏡の前に立つ。
暗がりの中、ぼんやりと映る自分の顔。
その中で、彼が「似合う」と言ったローズピンクのリップだけが、薄く色を残していた。

その言葉を間に受けて、会う日はいつもこれを塗っていた。
季節が変わっても、服の色が変わっても、唇だけはずっと同じだった。
それが今日も残っているのが、なんだか滑稽で、少しだけ痛い。

鏡の中の自分は、何も言わない。
ただ、引き結んだ唇だけそっと動かしてみる。
拭き取る前に、最後に。もう塗ることのないローズピンクの唇が形をつくる。

……すき、だったよ。

それは言葉にはならず、鏡の中で静かに消えていった────

8/13/2025, 4:21:18 PM