テーマ:クリスマスの過ごし方
「ハレ」と「ケ」なんていう言葉、考え方があるんだと、もう昔になってしまった高校の現代文だか古文だかの時間に聞いた記憶がある。
そのまま何となくの思い出で語ってしまうと、「ハレ」というのは冠婚葬祭やら祝い事を表すものであり、詰まる所は非日常。反対の「ケ」は特別に着飾るということのない自然体…つつが無い日常のことであるらしかった。
それで、何でこんな好奇心に触れる程度の事を不意に思い出したのかと言えば、
当然、日本にいつの間にやら根付いていたハレの日、クリスマスが近づいてきているから、なのである。
「クリスマスと言えば」は多分ご家庭、ご環境に大分左右されるものだと思うが、
少なくとも私の幼少期においては、ケーキと聞き慣れない音楽と欲しくもない玩具という内訳だった。
クリスマスになぞらえたケーキ、そして時々にはチキンが休日であれば手料理で、平日であれば既製品でお出しされ、夕食の間は1年のうち5日も使わないようなスピーカーからクリスマスのメドレーが流れていた。今となっては、七面鳥でなくチキンである事に納得できる範囲での違和感を見い出して笑ってしまうのだが、これはまぁ、揚げ足取りだろう。
それで子供にとっては肝心である玩具なのだが、これは、その、なんというか…酷かった。欲しいものを絶対にくれないのだ。サンタさんの感情というものを辛うじて推し量ってみると、どうにも勉強をしてほしかったようで、要望がおもちゃであれば知育玩具、小説であれば教科書に載るような古典がプレゼントされた。…一言だけ言わせてもらうとするならば、縛りをつけるにしたってセンスが悪かった。非常に、悪かった。
そんな訳で、甘味に興味が無く、唐揚げが好物で、クラシックが退屈だと思っていて、子供らしい願望しか無かった私には、クリスマスは特別な日ではなくただ賑やかな日でしかなかった。期待も緊張も無い自然な日常の一端、「ケ」の日だったのだ。
…だから今、私はどうやったらクリスマスを「ハレ」に出来るのか悩んでいる。
惚気になるようだが今は妻である、恋人相手の時は楽だった。毎回、レストラン一本で満足してくれたのだ。
聞いて、調べて、確認を取って、連絡を取って、当日、向かう。
若干契約染みた一連の結果、彼女が満足気に微笑んでくれたのを見て、
私は自分をもてなし上手のクリスマス熟練者なのだと自惚れを強めていったのだが、
しかし、子供に私は再確認させられた。
私は結局クリスマスが苦手なままだったのだ。
私が用意した料理によりも、妻が選んだ人形を喜ぶ子供の姿は、私がクリスマスにおいて食事というのは所詮、雰囲気と欲求を満たす一要素でしか無く、祝日の過ごし方から転用してきたそれは、クリスマスを特別にするものではなかったのだと自覚させたのである。
12/26/2024, 9:29:25 AM