《突然の君の訪問。》
夜も更け、白い月が頭上に満ちて光を放っている。
僕が持ち帰った本日分の書類の整理を終えて、眠りに就こうかという時だった。
日中の暑い空気を逃がすために開け放していた窓に、一匹の白猫が佇んでいた。
猫特有のしなやかな身体を包む毛並みは美しく、月の光を浴びて白銀に輝いている。
背後の窓の外に広がる夜の闇とのコントラストが映えて、とても幻想的だ。
丸く大きな瞳は不思議な赤紫色で、それがこの猫のこの世ならざるもののような雰囲気を醸し出している。
瞳孔は夜の逆光の為か丸く、そこに怯えの様子は全く見られない。
その瞳は何かを訴えかけるように、じっと僕を見つめていた。
白猫は小さく鳴くと音もなく床に降り立ち、椅子に腰掛ける僕の足元に近付いて来る。
室内に見知らぬ動物が入り込んだが、どうしてか僕はそれを止める気にはなれなかった。
白猫は僕の顔を見ながら手前まで来ると、その場に立ち止まり座り込んだ。
そしてまた一声小さく鳴くと、その視線を床に落として俯いた。
その姿は、まるで謝罪をしているように見えた。
すみません、ごめんなさい、と。
白猫は、何も悪さを働いていないのに。
「いいよ。おいで。」
僕は椅子に掛けたまま、手を差し出した。
すると白猫はハッと僕の顔を見上げた後、おずおずと歩み寄り差し出した手の指先に額をそっと触れさせた。
僕の部屋を突然訪れ、僕に怯えている様子は全く感じられないのに、その行動は妙に気弱なところがある。
この白猫の行動はどこかチグハグだが、とても身近な暖かさを感じる。
以前彼女が庭で猫を撫でていた様を思い浮かべ、それに倣うように白猫の首筋から背中に沿って手を滑らせる。
白猫は一瞬赤紫の目を見開くと、その後は目を細めて気持ち良さそうに喉を鳴らし始めた。
ずいぶんと無抵抗で、人懐っこく暖かい。
完全に僕の手を信じ切っている。
僕は試しに、白猫の両脇に手を添えてその身を持ち上げる。
その目は驚きに満ちていたが、細身の身体はだらりと無抵抗のまま僕の手により床から離された。
持ち上げた小さな白猫を自分の膝に乗せる。
そしてまた首から背中を撫でると、その喉から再びゴロゴロと音が鳴り出した。
白猫の全身から漂う僕への安心感と信頼感は、僕の心の奥まで優しく染み渡る。
僕は、その優しさにつられて目を瞑り白猫に頬を寄せた。そして、小さな額に頬を触れさせる。
一瞬だけ喉の音が弱まったが、白猫は更に大きく喉を鳴らせながら僕の頬にその額を、ヒゲの映えた口元を何度も擦り寄せてくれた。
それは本当に暖かく柔らかく、すらりと伸びたヒゲが擦れる感触が少しこそばゆく、それすらも心をどんどん暖めていった。
ああ、これが愛おしいという気持ちなのだな。
率直にそう感じた僕は、目を開いて白猫を見つめ呟いた。
「僕は、あなたが愛おしい。あなたと一緒に暮らしてみたい。」
すると白猫は喉を鳴らすのを止め、しばし僕の瞳をじっと見つめ返したかと思うと一度だけ僕の頬に顔を擦り寄せ、小さくざらついた舌で頬を舐めた。
そして切なげにその口から鳴き声を漏らすと、素早く僕の膝から降りて窓へと駆けて行った。
「あ…!」
僕は、白猫を怯えさせてしまったのだろうか。
何か気を悪くする事をしてしまったのだろうか。
僕は先程まで白猫を撫でていた手を伸ばし、その背中に追い付こうとした。
白猫はその僕の意思に応えるかのように開いた窓の縁に立ち止まり、腰を落ち着けこちらを向いた。
その姿は、現れた時とまるで同じ。
宵闇を背にし月影を受け佇む姿は、白銀に煌めいて美しく。
赤紫の瞳は、切なげに僕の姿を捕らえていて。
微かにその頭が横に振られたかに見えた。
不意に、その白猫に今は眠っているであろう彼女の姿が重なった。
ごめんなさい、と淋しげに謝る彼女の姿が。
ありがとう、とそれでも微笑む彼女の顔が。
僕がそれに心を囚われて身動きが取れずにいた瞬間、白猫は高く声を上げると窓の外へと姿を消した。
気を取り直し窓辺に駆け寄るも、既にあの白猫の姿は無く、そこには庭の草木が白い月の光を受けながら風にそよいでいるだけだった。
8/29/2024, 8:26:56 AM