ゆかぽんたす

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“ネモフィラがいい”。

どこぞの観光スポットに感化されて、単純なキミはそう言った。新居の庭に植える花。もう少しガーデニングに最適なものにしたら、と言う僕の助言に耳を貸すことなく。そんなに広くないんだから好きな花を植えるべきでしょ、って。我が家にも青い花畑作ろうよ、って、得意気に笑って。

だから週末には土いじりする約束だったのに。


叶わなかった。




普通の日常が、突如として失われるという感覚は、こんなにもあっさりとしているのだろうか。他人事な感想しか浮かばないほどその時は呆気なくて。僕はまだ夢を見ているのかもしれない。そう思ったけど、夢は夢でも残酷な悪夢だった。


キミが事故に巻き込まれ、病院に運ばれ、我が家に戻ってきたは良いがまたすぐに逝ってしまった。キミが小さな箱になってからの滞在期間もほんの一瞬だった。涙なんて出る暇さえなくこんなことになって。わけが分からなくて。僕は生きる力を放棄してしまった。食事も睡眠もできなくなった。次第に衰弱しながら、このままキミの待つ空の向こうに行けるのならそれでいいや。そう思ったけど、周りが許してくれなかった。病院に担ぎ込まれ適切な処置をされ、僕は命を手放すことなくこの世界にまだいる。あの頃の僕は“生かされている”、と思っていた。だってキミの居ない毎日なんて生きてたって仕方ないだろう。なのに生きているのは僕の願望なんかじゃないんだ。

結局、死ねなくて何の希望もないまま季節が過ぎてしまった。また春が来る。キミを失ったあの春が。今度は1人で迎えなきゃいけない。
テレビにはあの青い花畑が特集されていた。テレビなんて、見るつもりないけど時々静寂に呑まれそうな時ただつけておく。夕方のニュースの中で紹介されていたネモフィラ畑は、僕らがデートで何度も行ったあの場所だった。
そう言えば。 
彼女は庭にネモフィラ畑を作りたいって言っていたんだ。あんなことがあって、僕の記憶から忘れ去られていたことが、テレビの映像を見て呼び起こされる。うちにも青い花畑作ろうよ、って言っていた。
――彼女の願いを叶えなければ。

それだけが僕を突き動かした。突然の使命感に駆られ、僕は夜のホームセンターに走ってネモフィラの苗を買った。このお店にあるそれ、全部ください。息巻いて購入して、もう夜中なのに取り憑かれたように荒れ放題だった庭を再生し始めた。
作業が終わったのが夜明け前。朝日が昇る頃、流石に疲れ切った僕は庭に座り込んてしまった。そよそよと風が吹いた。なんてことない風。
だけど、今、確かに――

“ありがとう”

そう聞こえたんだ。キミの声が聞こえた。
はっとして空のほうを見る。その後自分の周りに視線を移した。僕を取り囲んだネモフィラたちが、風に揺れて踊っていた。青い花畑は朝日に照らされ気持ちよさそうに輝いている。優しい青色なのに今この時だけは目に染みた。小さな青い花達が寄り集まって、物凄い生命力のようなものを感じて、僕に何かを訴えかけてるような気がした。生きて、と。ネモフィラを通してキミが話している気がした。それを思ったら途端に視界が歪み出した。涙で滲んでも小さな青たちは美しかった。
キミにも届いているよね。僕が作った青い花畑が。もう僕は大丈夫。心配かけてごめんね。
心の中で呟いて、青い絨毯に寝転んだ。また風が吹いた。優しくて心地よくて、僕はようやく哀しみじゃない涙を流した。

9/18/2023, 8:34:22 AM